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それから一時間ほど走り、ランニングマシーンが止まると同時に、アルトは床に崩れ落ちた。自らオーバーワークを課したとは言え、ハイペース過ぎたようだ。ゼェゼェ、と呼吸は荒く、全身が汗に濡れていた。後れ毛が首筋に張り付いて、気持ちが悪い。パタパタと汗が床に落ちる。
心を占める感情は、疲れた、辛い、苦しい。
指先一つ持ち上げられない疲労感に苛まれながらも、理解不能な感情が浮上しないことに安堵を覚えて、アルトは深い息を吐き出した。その時だ、ギシリと床が撓る音を立てた。
「こんな夜中に、何考えているんだか・・・・・・」
前髪の隙間から、呆れたミハエルの姿が見えた。思わず逃げたい衝動に駆られながら、動けない自分にアルトは思わず舌を打った。そんなアルトの心内など知る由もなく、ミハエルは床の上で膝をついているアルトに肩を竦めて、その頭の上にタオルを落とした。
「姫って、時々直情的に馬鹿だよな」
「うっせぇ!」
勢いよくミハエルを見上げると、汗に濡れた額に冷たいペットボトルが押し当てられる。タプンと揺れる水の音に、アルトは喉が渇いていることに気付いた。
「夜中にこんなボロボロになるまで走るなんて、お馬鹿さん以外に何があるんだよ」
蓋を開けて、ミハエルはペットボトルを傾けた。ゴクゴクと上下する白い喉に、アルトは目を奪われる。飲み口に押し当てられた、ミハエルの唇。
「ほら、喉渇いているんだろう?」
そのまま差し出されるボトルに、アルトは躊躇した。
水に濡れたミハエルの唇。
直前まで、ミハエルの唇が触れていた飲み口。
「・・・・・・いらない・・・・・」
フイっとボトルを視界から追い出すように、アルトは顔を背けた。ミハエルは目を細めると、セットしていない前髪を掻き上げた。
「あれ?姫、ランカちゃんに『間接キス』って言われたこと、意識しちゃったわけ?」
「っ・・・・・だったら何だって言うんだよっ!」
噛み付くように叫んだ瞬間、アルトは自分の失言に目眩がした。これでは、意識しています、と宣言したような物だ。きっと、ミハエルに馬鹿にされるのだ。決定的な失態に悪態を呟きながら、アルトはいたたまれず俯いた。
「何って・・・・素直に嬉しいよ?」
ミハエルは床に腰を降ろすと、アルトの頬に手を伸ばした。呆然と揺れる琥珀色の瞳に甘い微笑を映して、汗で張り付く前髪を払う。
「・・・・・・どういう・・・・・・」
意味が分からない、と喘ぐアルトにミハエルは静かに微笑んだ。そして、翡翠色の瞳に意味深な色を浮かべて見せる。
「で、アルト。水は欲しくないの?」
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