イライラする。
この訳の分からない感情を鎮めなくては、一晩中唸り続けることになりそうだ。
「アルト?どうしたんだ?」
 上段で寝転んでいたミハエルが、心配そうに下段のベッドを覗き込む。不意に現れたミハエルに、アルトは声を上擦らせた。
「な、何でもねぇよ。・・・・・・ちょっと、トレーニングルームに行ってくる」
 邪魔だ、とミハエルの顔を振り払うような仕草をしながら、アルトはロッカーに足を向けた。ゴソゴソとトレーニングウェアを取り出す背中を見ながら、ミハエルは首を捻る。
「トレーニングルームって、今何時だと思っているんだよ」
 人によっては既に就寝しているだろうし、そうでなくても大抵の人間は就寝準備をしている時間である。そんな時簡にトレーニングなんて、狂気の沙汰だ。それに、とミハエルはため息を吐いた。そうでなくても、午後の授業は睡魔との闘いに全戦全敗中のアルトなのだ。夜中にトレーニングなんてしたら、明日の授業は全滅確実。それより、とミハエルは眼鏡のブリッジを押し上げる。
「明日、起きれなくなるぞ」
「ミシェルには関係ねぇだろ」
 ミハエルの顔も見ずに言ってのけると、アルトはそのまま部屋を出た。シュンと閉まるドアを見ながら、ミハエルは肩を竦めた。
「関係ない、ねぇ。・・・・・起こすの、俺なんだけどね。眠り姫」

 

◆◆◆◆◆

 

 ドスドスと床を踏み抜きそうな勢いで、アルトはランニングマシーンの前に立った。さすがに深夜に近い時間とあって、トレーニングルームには誰もいない。
 ミハエルは起きられなくなる、と指摘するが、あのままベッドに寝転んでいても眠れる自信はなかった。むしろ、一晩中唸り続ける可能性の方が高い。
 アルトは、かなりのハイペースをランニングマシーンに設定する。オーバーワークでもしてぶっ倒れでもしなければ、きっと眠れない。
 最初からハイペースでスタートする。何も考えられなくなるくらい、走ることに集中したかった。いや、何も考えたくなかった。真っ直ぐ前だけを見て、自分の内側の声を激しい鼓動で打ち消す。
高い位置で結んだ髪が、背中で跳ねる。規則的にリズムを刻む足音。苦しくなる呼吸を整える努力をしながら、アルトは無心で脚を動かした。そう、ランカが言っていたではないか。男同士なら気にしないぐらい些細な事。気にする自分がどうかしている。間接キスだと言われたぐらいで、笑い飛ばせなくてどうする。
「・・・・間接・・・キス・・・・・」
 アルトは無意識のまま、己の唇に指を伸ばしていた。触れた柔らかな感触に、ランニングで上がっている鼓動が更に早くなる。
 ズキリと痛む胸に爪を立てて、アルトは痛みの原因を摩り替える。
 

 自分の声は聞こえない。聞いてはいけない。
 だから、ただ無心で必死になって走り続けよう。何もかも、忘れる為に。

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