ミハエルがアパートを後にしてからの時間は、正直思い出したくない程の戦場だった。私物のハンドバッグに合いそうな草履を出して、そこから帯の色を決め、着物をチョイスする。長襦袢を着せて、化粧直しをして貰っている間に半襟やら、帯締め帯揚げを用意した。できれば、前日にでも相談してくれていれば、もう少し帯の結び方など色々と準備ができたのだ。だが、とアルトは母親の形見の着物を着たシェリルを盗み見て、がっくりと肩を落した。あのシェリルに、事前連絡を期待する方が間違っている。それでも、嬉しそうな笑顔を閃かせている二人を見ていれば、そんな不満も消えてしまう。 「想像以上に枚数持ってるのね」 白を基調に薄紅から紫へのグラデーションの美しい振袖に、真紅の帯と半襟でアクセントを付けたシェリルは、淡いピンク色の振袖を着たランカのヘアアレンジをしながら、感心するように呟いた。 「・・・・・・・捨てられなくてな・・・・・・」 アルトは、柔らかいストロベリーブロンドを黄楊の櫛で梳いて、ポツリと落した。あれ程、男として生きるのだ、と自分の女の部分を否定しているのに、いざ捨て去ろうとすると決心が鈍るのだ。 「ねぇアルト。アンタ、さっき『今のオレの着物』って言ったわよね?」 くるん、とランカの髪をお団子にして、シェリルは何かを企んだように目を細めて振り返った。 「ん?・・・・・・あぁ・・・・・言ったかな・・・・・?」 編み込みができない、とシェリルに前に向くように言いながら、アルトは首を傾げた。果たして自分は、そんなことを言っただろうか。 「アルト君、言ってたよ」 適当に使え、と鏡台に転がしておいた髪飾りを自分で付けながら、ランカは鏡越しにアルトに微笑みかけた。アップスタイルのランカは、いつもよりも幼く見えるが、その分可愛らしさは普段の三割増しだ。 「つまり、今のアルトが着られる着物があるってことよね?」 鏡の中のシェリルの表情は、艶やかにして凶悪。アルトの背中に、冷たい物が落ちる。 「アンタも着なさいよ」 あぁ、とアルトは天を仰いだ。確かに、今の着丈に合う着物はあるが、もちろん男物ではない。ランカやシェリルが纏う物と同じ、振袖なのだ。それを、今更袖を通せる筈がない。 「こんなに綺麗なのよ。箪笥の肥やしにするには、もったいないじゃない」 スっと手を掲げて、肌の上を心地よく滑る袖に目を細める。着物は、極上の絹で作られた芸術品だ。それを隠しておくことは、美に対する冒涜にも等しい。 「ランカちゃんも見たいわよね?アルトの着物姿」 「っ・・・・ハイ!」 シェリルの声に、ランカは祈るように指を組む。そのうっとりとした視線の先には、一体何が見えているのだろう。味方はどこにもいないのかと、がっくり項垂れるアルトに、シェリルはクスリと笑って立ち上がる。 「あんまりミシェルを待たすのも悪いし、着替えの邪魔になっちゃうだろうから、私とランカちゃんは先に行くわね」 鏡台の上から白い花飾りの付いた簪を取り上げると、数本の編み込みを纏めたお団子に差した。古典と新しい文化が交じり合う。 「じゃぁ、ランカちゃん。行きましょうか」 呆然としているアルトを置いて、シェリルは草履を履くと、ランカを引き連れてアパートを後にした。
パタンと扉の閉まる音に、アルトは我に返った。ノロノロと立ち上がり、嵐が去った後のような居間を簡単に片付ける。そして、出来上がったスペースにたとう紙を広げる。落ち着いた濃紺の振袖に指を這わせれば、総絞りの優しく柔らかな肌触りに、自然と強ばっていた緊張が解ける。 アルトは、チラリと時計に目をやった。アパートに差し込む光りも、随分と長い。そう、悩んでいる暇はない。チラリと、一人で待つミハエルの顔が脳裏を掠めた。 アルトは覚悟を決めた。 |