青い宝石の君

 

 

 

 

 

  夏に向けて強くなる日差しに、アルトは顔を顰めた。


  朝を迎える頃、アルトの体調は絶不調だった。世界は遠く、頭の芯が痺れたように重い。体はだるく、指先一つを動かすことすら億劫だ。なるほど、とアルトは胡乱だ頭で呟いた。人間寝ないと死ぬ、という話は本当なのかもしれない。そう、この体調不良は間違いなく睡眠を拒み続けている結果だった。
  食欲もなく、覇気のないアルトを心配して、玄関先まで見送りに出た兄弟子に、体調不良の原因を根掘り葉掘り尋ねられたが、何とか誤魔化した。例え本当に病気による物だったとしても、精神が弛んでいる、と父親に一喝され、休養よりも鉄拳を与えられるに違いない。公演前に体調を崩すなど、役者としてあるまじき失態である。それでも、とアルトは晴れ渡る空を見上げた。例えボロボロになろうとも、今日も自分でいられたことの方が、よっぽど重要だった。


「・・・・・はぁ・・・・・」


  朝の溌剌とした生徒たちのざわめきの中、アルトは額に滲む嫌な汗を手の甲で拭う。じっとりと冷たい汗は、額だけでなく下着代わりのタンクトップまで濡らしていた。あぁ、とアルトは足を止めた。もう少し歩けば日陰の校舎だと言うのに、体が言うことを利かない。否、既に立っている、という自覚すらできずにいた。地面はまるで泥のように不安定で、足を踏み出すことさえできない。


「・・・・ヤバイ・・・・・な・・・・」


  呼吸が乱れ、視界が霞む。指先から血の気が引いていくのが分かる。ガチガチと歯のぶつかる音がし始めたと思うと同時に、世界が暗転する。


  アルトの体が、ドサリと崩れ落ちた。

◆◆◆◆◆◆

 

 抵抗しないアルトの手首を掴んで、ミハエルは屋上の扉を開いた。さぁ、と前髪を攫う初夏の風に情事の名残をすすぐと、漸く頭が動き始める。クエスチョンマークに埋め尽くされていた思考を整理すべく、まず状況を把握しなくてはならない。ミハエルは眼鏡のブリッジを中指で押し上げると、逃げる気配のないアルトから手を放した。


「・・・・・早乙女・・・・アルト、だよな?」


  ジッと見つめる琥珀の瞳に、ミハエルは躊躇いがちに確認する。相手は大ファンにして、美星学園始まって以来の美姫と名高い、永遠のお姫様なのだ。本来なら、確認の必要などないのだが、ミハエルの直感が尋常ならざる雰囲気を感じとっていた。


「知っているの?」


  小首を傾げて、無邪気に笑う。


「あぁ、まぁ・・・・・・」


  舞台の上とは違うアルトの笑顔に、ミハエルは思わず視線を外し、ごまかすようにコンクリートの床に腰を降ろした。アルトも、すかさず肩を並べて座る。


「あのさ・・・・・」


  ジッと覗き込んでくるアルトに、ミハエルは困ったように頬を掻いた。この無邪気さは何だろう。いや、制服越しに膝を撫でる手は、無邪気とは違う。何より、この絡み付くように甘い空気の意味は何だ。ミハエルは、深く息を落とした。数多の女性に、たくさんの話題と楽しい時間を提供し、プレイボーイの名を欲しいままにしてきたミハエルが、アルトの空気に気圧されて何の話題も出てこないのだ。女性が相手なら、どんなに誘うような仕草をされても、交わして焦らすことなどお手の物なのに、それさえままならない。ミハエルは考える。憧れの存在と対峙するだけで緊張してしまうのに、言葉を交わし、挙句微笑み掛けられるなんて、夢でも見ているようだ。いや、これは誘惑されている、と言うべきだろう。


「・・・・・・誘惑・・・・・・」


  呟いてみて、ミハエルは呆然とアルトを見た。アルトは保健室で、教えて、と囁いたのだ。アルトが、ミハエルの視線に気付いて顔を上げる。言われてみれば、その濡れた瞳の意味を知っている。先だって保険医が見せた、飢えた女の目だ。あぁ、とミハエルは青い空を見上げた。保健室から、アルトの雰囲気は変わらない。ずっとミハエルを挑発し続けていた。ただ、ミハエルが認めたくなかっただけ。自分の憧れる早乙女アルトは、こんな俗物的な衝動は持たないのだ、と。だが、ちょっと待て、と冷静な部分が告げる。確かにミハエルが知っている早乙女アルトは、美しい姫君の姿だが、実際は同じように男子用の制服を着る同性なのだ。幾らミハエル達の情事に劣情を覚えたとしても、こんな風にオンナの目はしない筈。


「あー・・・・・」


  ミハエルは、ガシガシとセットした髪を掻き毟った。考えれば考えるだけ、堂々巡りの袋小路に嵌って行く気分だ。チラリとアルトに視線をやると、アルトが丁度髪を解こうと紅い組紐に指を掛けた所だった。シュル、と衣擦れの音が響き、同時に艶やかな黒髪がアルトの儚い肩に舞い落ちる。


「・・・・・・・・」


  アルトはミハエルの視線に無言で微笑を返すと、困惑するミハエルをそのままに、自らの白い腕とミハエルの鍛えられた腕を並べた。そして、解いた組紐を二人の腕に絡め、結んでしまう。ミハエルは、言うべき言葉が見付けられぬまま、ただ呆然と白い腕と紅い組紐のコントラストを見下ろすしかなかった。アルトは、嬉しそうに頬を染めて唇を綻ばせている。その、少し恥らうような乙女を彷彿とさせる笑顔に、ミハエルは思わず口元を押さえた。本当に、このお姫様は男心を知らないのか。淡い笑みでミハエルを見つめるアルトに、ミハエルは肩を落とした。知らないんだろうな。


「・・・・・コレ、何のつもりなのかな?」


  ミハエルはアルトを視界から追い出して、腕に巻き付けられた組紐を指差した。アルトは一瞬恥ずかしそうに目を伏せて、言葉を捜す。そして、紅い舌で唇を濡らして、口を開いた。


「意味は・・・・・ないのだけど・・・・・・」


  一度言葉を切って、エメラルドグリーンの瞳を見上げる。


「赤い糸、みたいかなって・・・・・・」


  運命の赤い糸、と言いたいらしい。ミハエルは、叫び出したい衝動に駆られた。純情な恋愛と対極にいる自分に、どうしたらこんな乙女の相手ができると言うのか。ミハエルの頭は、混乱の極地にいた。目の前にいるのが、早乙女アルトという少年であることは、重々承知している。だが、どうしても花の少女にしか見えないのだ。これが、天才の芸だと理性が言う。だが、本能が認めない。


「あのさ・・・・・教えてって何のこと?」


  言葉を選ぶ余裕もない。状況の整理、と呪文のように繰り返して、不埒な本能を押さえ込む。だが、ミハエルの心の内など知らないアルトは、艶然と笑ってミハエルの頬に指を伸ばす。


「・・・・保健室で・・・・・シてたこと・・・・・」


  言葉を選ばないのは、こちらも一緒。ミハエルは、思わず喉を鳴らした。こんな風に見つめられるだけで、風に流した筈の熱が再燃するなど、何の冗談だろう。指先の動きだけで、心臓が高鳴る。だが、ミハエルは踏み止まる。相手は、叶うことのない初恋なのだ。自分の思い出まで汚せるほど、ミハエルは全てを捨てたつもりはない。


「そういうのって・・・・・好きな人とするもんだろう・・・・・」


  俺が言えた義理じゃないけど、とミハエルは苦笑する。だが、アルトはキョトンとした表情で繰り返す。


「好きな人・・・・・」
「そう。だって、俺の名前も知らないんだろう?」


  自分だって、名前も知らない相手と一夜を過ごすこともある。だがアルトには、そんな爛れた関係を持って欲しくなかった。そう、これはただのエゴ。


「名前・・・・早乙女アルト・・・・・」
「俺は、ミハエル・ブラン。ミシェルって呼ばれてる」


  しまった、と思った時には遅かった。アルトの紅い唇が、ミハエルの愛称を紡ぐ。


「・・・・・ミシェル・・・・・」


  そして、ミハエルの腕に体を摺り寄せて、もう一度甘く囁く。


「ね、ミシェル・・・・・教えて?お願い・・・・・」


  琥珀色の瞳に映る自分は、酷くうろたえていた。名前と一緒に言われることで、破壊力は格段に上がる。ミハエルの理性がもう少し脆ければ、アルトに襲い掛かっている所だ。悪夢のようだ、とミハエルは腹に力を入れた。本当に、夢だったらどれだけ救われただろう。だが、ミハエル自身、これが夢だなんてカケラも思っていなかった。早乙女アルトが同じ学園に通っているのは知っていたし、クラスメイトと肩を並べて歩く姿だって、何度も見ているのだ。そう、スタートが特殊だっただけで、こうして会話をすることは想定の範囲内だ。尤も、こんな色事に関する会話というか、攻防を演じるとは想定外だ。


「何で俺なの?というか、どうしてそんなに知りたいの?」


  ミハエルの純粋な疑問に、アルトは表情を凍らせた。


「そんなに、エッチなコトがしたいの?」


あぁ、とミハエルはアルトを見た。違和感の正体が、分かった。


「何か、いつもと雰囲気が違う・・・・よな?」


  ボソリ、とミハエルが呟くと、アルトの体が硬直する。まるで精巧に作られた人形のように、力なくへたり込む。


「・・・・・早乙女・・・・・?」


  覗き込んだ琥珀色の瞳は、先程までの妖艶な色はもちろん、光りさえ失ったように暗く沈んでいる。


「・・・・・・・・・・・・」


  小さく唇を動かして、何かを言おうとしているアルトに、ミハエルは小さく胸を撫で下ろした。一応、ミハエルの声は聞こえているようだ。だが、この豹変振りは何だと言うのか。地雷を踏んだのであれば、アルトは正面切って怒りを露にする筈だ。見かけるばかりのミハエルに何が分かる、と言われればそれまでだが、アルトには何となく、そういう姿が似合うように思うのだ。


「・・・・いつもって?・・・・・・」


  さぁ、と風がアルトの長い髪を巻き上げる。黒髪の向こうから、固い声が響いた。


「いや、クラスの人間といる時と、雰囲気が違うな、と思って・・・・・」


  ミハエルは、正直に答える。ミハエルだって、役柄と本人の性格が一致しないことは百も承知しているが、さすがに知っている姿とここまで乖離していれば、言及したくなるのが人というものである。


「あれが、いつもの姿?」


  焦点の合わぬ瞳で、どこか遠くを見つめながら、アルトは呆然と呟いた。そんな筈はない、と心の内で声がする。一日の内、たった数時間だけの学校生活が、自分の全てである筈がない。では、一日の大半を女性として過ごす自分が本来の姿か、と問われれば、アルトは首を振るだろう。


「っ・・・・・ぅ・・・・・・」


  不意に頭を押さえて蹲るアルトに、ミハエルはギョッとした。そう言えば、アルトは保健室で寝ていたのだ。何も考えずに連れ出したが、本当は病気なのかもしれない。定期公演が迫っている時期に体調不良となれば、ミハエルも心配になってくる。


「早乙女?大丈夫か?」


  肩を抱くようにしながら、耳元で囁く。腕の中でアルトは弱々しく頭を振ると、ミハエルに心配掛けまいと、笑おうと頬に力を入れた。それでも、ズキリと音を立てる頭痛に、どうしても表情が強張ってしまう。


「無理するな。・・・・・・保健室、戻ろうか?」


  アルトがどうして自分を求めたのかは謎のままだが、病人を問い質すような趣味は、ミハエルにはない。だが、腕の中のアルトは提案を拒否するかのように首を振る。そして、痛みに眉根を寄せて、それでも紡ぐ。


「いつもの自分なんか、知らない・・・・・・ただ、知りたい・・・・・・」


  ギュッとミハエルのシャツを握り締めて、アルトはミハエルを見詰める。その瞳にあるのは、先程までの艶っぽさではない。ただ痛々しく頭痛に耐える、早乙女アルトの姿だ。


「知らなきゃ・・・・・・分からない・・・・・・・」


まるで決意のような言葉を呟くと同時に、とアルトの体は魂が抜けるように崩れ落ちた。


「早乙女?・・・・・・さ・・・・・アルト!アルトっ!」


  腕の中でぐったりとするアルトに、ミハエルは慌てた。体は熱く、まるで熱があるようだった。きっと、このまま保健室にアルトを運ぶのが、ミハエルにできる一番正しい処置だろう。だが、ミハエルは別の選択肢を取ることにした。アルトを抱えたまま、携帯電話を取り出した。今日の授業くらい出なくても、進級に差し支えないことは分かっている。調べるのは、バイトのシフトである。


「・・・・・今日は、非番か・・・・・・」


  偶然の女神に感謝をしつつ、ミハエルは携帯をポケットに戻すと、アルトを抱え上げた。確かに、病人を問い質す趣味はないが、色々聞きたいのは事実だ。腕の中で意識を失ったアルトを見下ろして、ミハエルは自嘲を浮かべた。