誰にも内緒の夜の姫

 

「終わった……」

 疲れた、と格納庫へ戻ってきたミハエルは、愛機のキャノピーを跳ね上げて大きく息を吐き出した。

「ミシェル先輩、お疲れ様でした」

 無線越しに聞こえて来た後輩の声に顔を上げると、モニターに満足そうな笑顔を浮かべて大きく手を振るルカの姿が映る。ミハエルはヘルメットを脱いで、乱れた前髪を掻き上げた。

「疲れた……」

 天使のような笑顔を持つルカだが、その実かなり容赦がない。

「いや、溜め込んだ俺も悪いんだけど…」

 ミハエルは溜息と共に立ち上がり、タラップを降りる。

「お疲れ様でした。お陰で必要なデータを全て取ることが出来ました」

 そこにはノートパソコンを抱えたルカが立っており、サっとミハエルにタオルを差し出した。ミハエルは有難くタオルを受け取り、滝の様に落ちてくる汗を拭う。

「気のせいか、俺が溜め込んでた分より多くなかったか?」
「気付かれちゃいましたかぁ」

 アハハ、とルカは頭を掻きながら笑う。そして、悪びれることもなくアッサリと言ってのけた。

「いつまでも出てこない、とヤキモキするより、取れる内に必要な物を集めてしまった方が効率的だ、と思っただけですよ」

 皮肉なのだろうか、とミハエルは思ったが口には出さなかった。ルカ相手に、口で勝てるとは思えない。何しろルカは大人相手に堂々とプレゼンをし、時には熱く議論するのだ。敵う訳がない。

「なるほど、今後はなるべく溜めないように気を付ける」

 そう、ここぞとばかりに追加で色々とやらされては、体が持たない。それに、せっかくの恋人との時間を奪われては、精神も持たない。

「えぇ、そうして頂けると僕も有難いです」

 それもルカの本音なのだろう。何しろルカは、これからデータの解析作業と報告書の作成が残っているのだ。

「では、僕はこれで失礼しますね」
「おう、無理するなよ」

 ペコリ、とお辞儀をして踵を返すルカに手を上げて、ミハエルもシャワーを浴びるべく歩き始めた。

 

 

 

 

 

 


 ロッカールームに移動して、パイロットスーツを脱ぐ。むわっと熱気が溢れて、ミハエルは思わず眉根を寄せた。自分の汗だと分かっていても、やはり不快感が先に立つ。

「取り敢えずシャワー…」

 ミハエルはタオルで汗を拭きつつ、ロッカーを開けた。その時、制服の胸ポケットに入れっぱなしにしていた携帯電話が光っているのが目に入った。それは、着信があったことを示す物だ。

「姫か?」

 歌姫たちに引き摺られて行った所までは確認しているが、さすがに一人では持て余したか。いや、アルト一人であの二人を御することなど不可能だ。

「俺でも勘弁願いたいな…」

 ミハエルは肩を竦めつつ、携帯電話を手に取った。刹那、けたたましく携帯が震えた。

「え?ランカちゃん?」

 ディスプレイに表示された名前に若干驚きつつ、ミハエルは通話ボタンを押した。

「あぁぁぁ!ミシェル君良かったあぁぁぁ…出てくれたぁぁぁ」

 受話口から聞こえて来たランカの声は、尋常ではない程に涙に濡れていた。

「え?ランカちゃん?どうしたの?」
「お願いミシェル君、助けて!」

 ギリリ、と携帯を握る手に力が入る。妙に心臓が煩い。ルカの性能テストと言う名の無茶振りに付き合ったから、という訳ではなさそうだ。ミハエルは詰問してしまいそうな己を必死に制して、静かにランカの言葉を待った。

「っ……アルト君が……アルト君がっ」

 ひぅ、とランカは小さく悲鳴のような声を上げ、言葉を続けるのは難しそうだ。ただ一つ分かるのは、アルトの身に何かが起きた、ということだ。百聞は一見に如かず。

「ランカちゃん!今どこにいるのかな?」
「っ…グリフィスっ…グリフィスパークぅ……」
「分かった、すぐ行く」

 そう言ってミハエルは電話を切ると、制服に腕を通した。シャワーを浴びたい、という欲求が頭の片隅を掠めはしたが、それよりもアルトが何かに巻き込まれたかもしれない、と思うと全ては些末事に成り下がる。

 ミハエルはネクタイを掴むと慌ただしくロッカーの扉を閉めて、宿舎を飛び出した。そしてちょうど通りを走るタクシーを捕まえて、ようやく息を吐き出した。

 窓に映る自分の姿に苦笑して、ミハエルは乱れた髪を手櫛で整える。そして、気を落ち着けるようにネクタイをゆっくりと締めた。

「それにしても…何があったんだ?」

 もしアルトが怪我を負ったのであれば、彼女たちはミハエルではなく救急車など医療機関に連絡をしていた筈である。それを、いの一番にミハエルに助けを求めると言うことは、アルトに身体的なピンチが訪れた訳ではないのだろう。

「なら…」

 何が起きたというのか。果たして、自分が何か力になれるようなことがあるのだろうか。何よりミハエルを不安にさせるのは、携帯に残された夥しいまでのランカからの着信の数だ。それは、明らかに緊急事態が発生したことを窺わせた。そして、電話を通して聞こえたランカの声。明らかに泣きじゃくるようだった声を思い出し、ミハエルはジワリと滲むように痛む胃を知らず摩るのだった。

 タクシーがグリフィスパークで止まると、ミハエルは支払いももどかしく転げるように降車した。階段を駆け上がり、ランカのお気に入りの場所を目指す。そう、詳しい場所は聞いていないが、彼女たちが何か問題を抱えるアルトを連れて移動する先に、馴染みのあるグリフィスパークを選んだ時点で、その可能性は高いと考えられた。

 そして、

「シェリル!ランカちゃん!」
「ミシェル、こっち!」

 ミハエルの声に顔を覗かせたシェリルが、急げ!とばかりに手招いた。遅い、と文句を言うでもなく、その表情は真剣そのもの。だからこそ、ミハエルの不安は大きくなる。

「ランカちゃん、ミシェル来たわよ」

 シェリルは、ストロベリーブロンドを翻してランカに振り返った。ミハエルはその声に誘導されるように、視線を動かした。

「…姫?」

 そこには制服が汚れることも厭わず、ペタンと地面に座り込み両手で顔を覆うアルトの姿があった。その隣で、心配そうに眉根を寄せてアルトの肩を抱くランカに、ミハエルは慌てて駆け寄った。

「姫?どうした?」

 ふと見ると、制服のスラックスに雨粒が落ちたような染みが滲んでいる。パタ、と落ちた雫を視線で追えば、アルトの指が濡れていた。

「泣いてる?」

 思わず呻いたミハエルに、ランカが頷く。

「もう一時間もアルト君、何も言わずに泣いているの…」