Sanatio aqatica

2009830

 

 

ザァッと風が木々を揺らし、流れる雲が月を覆い隠した。
 草木も眠る深夜。その静寂を破るかのように、今夜もシエルの咳が屋敷に響く。
 最初はコンコンと静寂を揺らすほどだが、やがて咳は酷くなりゴホゴホと体の底から全てを吐き出してしまいそうな音へと変化する。
「今日もですか・・・・・」
 はぁ、と肩を落としてセバスチャンはシエルの寝室へと急いだ。

 

◆◆◆◆◆◆

 

 喘息の発作が出て以来、ほぼ毎晩の如くシエルは咳に悩まされていた。日中はクシャミ一つ出ないのに、夜寝ていると突然咳に襲われるのだ。しかも、ただの咳ではない。喘息特有の、ゼーゼーと異音の混じる咳。
 シエルは上半身を起こして、少しでも楽な体勢を探した。しかし、咳は酷くなり続けるだけで、シエルは苦しげにシーツを握り締める。
「ゴホッ・・・・ゴホンゴホ・・・ゴホッゴホッ」
「坊ちゃん、大丈夫ですか?」
 セバスチャンは主が少しでも楽になるように背中を摩りながら、水差しからグラスに水を注いだ。
「坊ちゃん、お水です。飲めますか?」
 咳で震える手でどうにかグラスを受け取ると、シエルはゆっくりと水を飲んだ。水は喉を潤し、咳を鎮めてくれる。グラスの水がなくなる頃には症状も収まり、シエルは睡魔に引きずられるように布団に潜り込む。そして、すぐに小さな寝息を立て始めるのだ。
「さすがに、こう毎晩続くとお体に触りますね」
 セバスチャンは汗で張り付くシエルの前髪を払ってやりながら、ため息混じりに呟いた。

 

◆◆◆◆◆◆

 

 昼食を終え、アフタヌーンティーの時間までシエルは執務室で書類に決裁のサインをすることになっていた。しかし、書類は先ほどから一枚も処理されることなく、シエルは自然と落ちてくる瞼に必死に抗っていた。ゴシゴシと目を擦っても欠伸の数に変化はなく、朦朧とする意識が晴れることもない。もう何度目かの大欠伸を吐き出して、シエルは呼び鈴に手をかけた。
「濃い紅茶を持って来い」
 畏まりました、というセバスチャンの声を聞いて、シエルは再び書類に目を落とす。セバスチャンが来るまでに少しでも片付けようと、必死になって文字を追いかけるのだが、頭に入ってこない。正直、意味不明の暗号を解いている気分だ。
 シエルはペンを置くと、そのまま机に突っ伏した。セバスチャンが紅茶を運んで来るまで、少しだけ瞼を綴じてしまおう。ノックの音で起きれば、きっと大丈夫だ。と、シエルが体から力を抜いた瞬間、乱れのないノック音が響いた。
「お待たせ致しました」
 まるで自分の思惑を見透かしていたようなタイミングに、シエルは渋い表情でセバスチャンを見上げた。
「随分早いな」
「ここ最近、毎日のように濃い紅茶をご所望になられますから、本日は予めご用意しておりました」
 ファントムハイヴ家の執事たる者、と嘯くセバスチャンにシエルはケッと吐き捨てた。いつでも余裕のあるセバスチャンの態度に、シエルは常々思っていることがある。この完璧を由とする悪魔が、余裕をなくし切羽詰まる姿を見ることはできないものか、と。
「ミルクはお入れ致しますか?」
 何か思うことがあるのか、それともただ眠いだけなのか、目付きの険しくなった主を横目で見ながら、セバスチャンは紅茶を用意する。
「ミルクなんか入れたら、意味がないだろう」
 眠気を払うのが目的なのだ、砂糖も入れずストレートで飲むことに意味がある。眉尻を上げるシエルに、苦いですよ、と一言添えてセバスチャンは紅茶を満たした白いカップをシエルに差し出した。
「一言余計だ」
 セバスチャンの言葉を一刀両断して、シエルはカップに口を付けた。しかし、分かっていたものの紅茶は渋く、どうしても眉間に皺が寄る。そんなシエルの姿に、セバスチャンは小さく笑みを零した。普段は大人以上に冷徹な顔をして見せるのに、時折見せる歳相応の表情がひどくアンバランスだ。それは、シエル自身の投影か。
「書類の片付き方如何によっては、そろそろアフタヌーンティー用のケーキの準備に取り掛かろうかと思っていたのですが。もう少し掛かりそうですね」
 未処理の山を見て、セバスチャンはため息混じりに呟いた。ある程度想定していたが、この処理スピードは想定外だ。失敗すれば、ケーキは不要になる可能性もある。
「べ、別にサボってたわけじゃないからな」
 眉間に深い皺を刻んで、シエルは空のカップを叩き付けた。
「えぇ、心得ておりますよ。この事態は坊ちゃんにとって不可抗力でございますからね」
 全ては夜中の発作のせいであることは、明白だ。しかし、この書類の山たちはそんなシエルの事情など認めないだろう。
「家庭教師(ガヴァネス)たちからも、坊ちゃんがぼんやりしていて困る、とのお話を頂いております。何か、根本的な解決方法を模索する必要がございますね」
 医療書の場所を思い浮かべて、セバスチャンはケーキが焼き上がるまでに読み終えねば、と口の中で呟いた。
「余計なことはしなくていい」
 シエルはセバスチャンを牽制するが、当の執事はシレッとした顔でやり過ごす。
「では坊ちゃん、あと少しですから頑張ってくださいね」
 空のカップに再び濃い紅茶を注いで、セバスチャンは複雑な表情を浮かべるシエルにニッコリと笑って見せた。

 

◆◆◆◆◆◆

 

 ケーキの生地をオーブンに入れて、セバスチャンは図書室へと向かった。主人からは咎められたが、シエルのスケジュールを管理する立場としては早々に解決すべき問題である。
 アグニ辺りに言わせれば、昼寝の時間を設ければ良い、と言うだろう。しかし、とセバスチャンは首を振る。昼寝をすれば、その分だけシエルの就寝時間が後ろにスライドするだけで、根本的な解決にはならないのだ。そう口にすれば、きっとアグニの主人からは駄目だしされてしまうだろう。シエルは子供だ、と。確かに姿は子供だろうが、すでに爵位を有しており、その広大なる土地の管理を行わなければならないのだ。更に、ファントム社の経営者して辣腕を奮い、未成年者であるが故に、教養も身につけなければならない。そこに、女王の番犬としての仕事が舞い込めば、悠長に昼寝など提案できるはずもない。
 セバスチャンは医療書を手に取ると、さっそく喘息の項を開く。
「・・・・・・・なるほど」
 眺めるような仕草で、セバスチャンは医療書の内容を一字一句漏らさず記憶する。
 どうやら、夜中から明け方に掛けての発作は喘息特有の症状らしい。主な原因としては、自律神経の問題と夜中から明け方に掛けての気温の急激な低下に拠るものが上げられている。
「自律神経の問題とは、防ぎようがありませんね」
 セバスチャンはつまらなそうに呟いて、再び文章を追いかける。人体には、活動する神経と言われる『交感神経』休む神経と言われる『副交感神経』があり、必要に応じて自動的に切り替わるようにできている。この『副交感神経』に切り替わると、気管支が緊張し発作の起きやすい状態になるらしい。なら、『副交感神経』に切り替わらないようにすれば良い、という暴論はさすがにセバスチャンも飲み込んだ。この自律神経の切り替わりに問題が生じる方が、喘息よりもよっぼど人体にとって危険なのだ。セバスチャンが零したとおり、確かに防ぎようがない。
「そんな状態で気温まで下がれば、覿面ですね」
 医療書によれば、気管支は気温が急激に低下すると収縮しやすいらしい。簡単に言えば、夜は喘息患者にとって逃れようのない魔の時間。
 喘息は、放っておけば死に至る病。
 大事に護り抜いた魂が、病魔に連れて行かれるなんて笑い話にもならない。
「さぁ、どうしましょうか?」
 発作の予防として取り急ぎ打てる対策としては、常にリネン類を清潔に保ち屋敷の掃除を徹底することだろう。ダニや埃も喘息患者には敵だ。しかし、これらでは現在の症状を緩和する有効な手段とは言いがたい。
 喘息に有効な薬といえばステロイド剤だが、その登場は後百年ほど待つ必要がある。正直、そんな悠長に構えてはいられない。セバスチャンは、他に手立てがないか読み進める。ページを捲り、せわしなく視線を走らせる。
「・・・・・これは・・・・・」
 ある一文に、セバスチャンの目が留まった。それは即効性があるとは言い難いが、かなり有効な手段のようだ。長期的に実施することが要求されるが、日々のスケジュールに組み込んでしまえば問題ないだろう。後は費用の問題か。それでも、このままシエルの効率が上がらない方が損失は大きいだろう。
 セバスチャンは喉の奥で笑みを漏らすと、ペンを取り上げた。