彼シャツ。

 

 

 終業のチャイムが鳴り終わると同時に、アルトは鞄を持って立ち上がった。先日、ランカとナナセから美味しい甘味屋さんの情報を仕入れて以来、機会を窺っていたのだ。今日は EX ギアの練習もないし、バイトのシフトも入っていない。空を飛べないのは残念だが、絶好のデート日和だと前向きに自分を慰める。それが、漸く恋人という関係に慣れてきた証のようで、アルトは思わず頬を薄く染めた。

「ミシェル、今日さ・・・・・・・」

「悪いアルト。呼び出し食らっちゃって・・・・・」

 アルトが誘いの言葉を口にするより早く、ミハエルがパンと両手を合わせた。

「すぐに終わるからさ・・・・・・」

「いい。先に帰ってる」

 またかよ、と口の中で吐き捨てるように呟いて、アルトはミハエルを見ることなく教室から飛び出した。翻る黒髪に手を伸ばすことも出来ず、ミハエルは遠ざかる背中を見送るしかなかった。

 

◆◆◆◆◆◆

 

「・・・・・さすがに、あの態度はマズイよなぁ・・・・・」

 トボトボと独りきりの帰り道。アルトは深いため息と共に、反省を口にした。肩を落すアルトを嘲笑うかのように、ケーブルカーがアルトを追い越しながらグイグイと坂道を登る。その後姿を見ながら、アルトは強く拳を握った。

 アルトと恋人関係になると、ミハエルはそれまでの生活を一転させた。来る者拒まず、と一夜のアバンチュールを楽しんでいた学園一の遊び人が、スッパリと誘いを断るようになったのだ。更に、アルトの目の前で女性のアドレスを一掃して見せた。その思い切りの良さに慌てたのは、他でもないアルトだった。何か困って連絡を取る時が来るかもしれない、と言えば、ミハエルはアルトが好きな甘い蜂蜜のように輝く笑顔で言ってのけた。

「アルトがいるのに、何に困るって言うんだよ」

 あまりの言い分に、アルトの心臓が一瞬動くのを止めたぐらいだ。

 アルトは、ため息を零しながら格子の空を見上げる。ミハエルと一緒にいると、心臓が幾つあっても足りない。ずっとドキドキしている。いつか破裂して死んでしまうのでは、と本気で考えるくらいに。そして、それが好きだということだと自覚して、尚鼓動が早まる。

「・・・・ホント世話ねぇよな・・・・・」

 初心な生娘でもあるまいに。

ミハエルが女性に人気があることは、分かりきっていた事実だ。今更杞憂を覚えるのは、間違っている。それでも、正式にお付き合いを始めたと言うのに、最近殆ど一緒に帰れないとなると、さすがに来るモノがある。その理由が、女生徒からの呼び出し、となると、どうしても胸がざわついた。百歩譲って、それが以前のような一夜限りのお誘いならば、ここまでアルトの心を掻き乱さなかっただろう。そう、最近の呼び出しはそんな生ぬるい物ではないのだ。

「・・・・・・本気かぁ・・・・・」

 本気だ、とアルトを振り向かせたのは、ミハエルだった。

 最初は、本当に戸惑った。アルトをからかうのが日常茶飯事のミハエルが、自分を好きだと言った時は、どうせいつもの冗談なのだと思ったのだ。いやだって、とアルトは唇の裏を噛む。自他共に認める女好きが、何を血迷えば男である自分を、好きだ、なんて勘違いを起こすのか。確かに、認めたくはないが、アルトの容姿は男性というより女性のソレに近い。大和撫子を形にしたような母の容貌を否定するつもりはないが、それでも瓜二つだと言われれば、年頃の男子としては面白くない。それに、とアルトは道端の小石を蹴飛ばした。呪縛のようにアルトを苛む、女性として生きた日々。永きに渡って叩き込まれた、女性の淑やかで美しい所作。女性より女性らしく生きることを強要されたアルトにとって、男を否定されることは逆鱗に触れるも同義。にもかかわらず、姫姫と呼んでからかえば、アルトの心が頑なになるのは、自明の理。正気を疑われるのは、ミハエル自身の不徳の結果だ。

 それでも懲りずに、本気と言われれば、アルトだって向き合わざるを得ない。そうして、気付いてしまったのだ。ミハエルの言葉の裏には、何の否定も含まれていないことに。男であろうと意地を張り続けるアルトも、ふと顔を覗かせてしまう女性の部分も、ミハエルはそのどちらもひっくるめて、早乙女アルトとして扱っていた。それは、アルトにとって新鮮な驚きだった。自分に求められるのは、常に女性の部分ばかりだと思っていた。いや、早乙女の家でさえそうなのだ。他人であれば尚のこと。ましてや、ミハエルの好きはそういう意味を多分に含む物である。なのに、とアルトは唇を噛んだ。ミハエルにとって、アルトはアルトで在り続けた。男や女という概念すらなく。

 そして、アルトは漸く気付いたのだ。ミハエルの前でだけ、自分がとてもリラックスしている事実に。無理に男として振舞おうとしなくても、うっかり女性のような所作が出てしまっても、ミハエルの自分を見る目は変わらない。ふざけあって、軽口を叩いて。それが、常に気を張って生活していたアルトにとって、酷く落ち着ける時間であり、場所だった。そうなれば、アルトが導く答えは、一つしかなかった。

 ただ口にするまで、随分と時間が掛かってしまったけれど。そう、男として生きたいと家を飛び出てきた手前、男を好きになったなど簡単に認められる物ではない。しかも、女のように愛されたいなど、自己矛盾も甚だしい。だが結局、紆余曲折を経て、意地は感情に負けたのだ。

 アルトが気持ちを告げた時のミハエルの表情は、今でも覚えている。安心したような、今にも泣き出しそうな複雑な顔だった。色男が台無しだ、とからかえば、それだけ本気だったのだ、と返されて、赤面したのはアルトだった。真っ赤になった姫可愛い、とか嘯くミハエルを怒鳴りつけた。くすぐったくて、照れ臭くて。これからそんな毎日が続くのだと、頬を緩めた。

 そう、本気と言われ続ければ、誰だって向き合い考える。答えを導こうとする。アルトは、胸元を強く握り締めた。今、ミハエルたちを呼び出す少女たちは、そう言った類の物なのだ。本気で、ミハエルを好きだと言うのだ。

「・・・・・はぁ・・・・・」

 落ちる吐息が重い。例えどんなにアルトが、理想の女性を演じられたとしても、所詮この身は男。どんなに美しいと賞賛されても、アルトの芸は虚構の世界でしか通用しない。本物の女性と張り合えば、勝負する前から結果は決まっている。そんな彼女たちが、ミハエルに本気で向き合って欲しいと言うのだ。ミハエルのことを信用していないわけではないが、アルトは怖かった。男同士で身体を重ねることは出来るが、それでも、女性に比べれば手間も掛かるし、何より女性のように柔らかく包んであげられない。元々は女好きのミハエルだ。いつ、やっぱり本物の女の子が良い、と言い出すか。本気だ、と言う女性たちに代わる代わる呼び出されれば、ミハエルにだって心境に変化が現れるだろう。そう、嘗ての自分のように。

「・・・・・ダメだなぁ・・・・・」

 ダメだダメだ、と繰り返して、アルトは小さく首を振った。長い髪がパサパサと音を立てる。悩んでいてもしょうがない。せめて、最後までミハエルに軽蔑されない自分であろう、と腹を決めて、アルトは重たい脚を無理やり動かした。