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人魚の姫
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ギシギシと軋む船体。 暴風に右に左に煽られて、何かに掴まっていないと簡単に床を転がってしまう。雨粒は、船体を穿つ礫のような音を立てて、降り注ぐ。 突如押し寄せた嵐に、船室へ避難するように言われたが、これではどこにいても危険度は変わらない。 「このままじゃ・・・」 船は山のように高く荒れ狂う波に突き上げられ、そして湧き上がる嫌な予感を裏打ちするように、耳障りな音を上げた。 船体が捻じ曲がり、木の裂けるバキバキと不気味な音が響いた瞬間、雨粒が肌を叩いた。同時に、巻き上がる風に体が攫われる。 「殿下ぁぁぁぁ!」 従者たちの悲鳴を聞きながら、聳える波間の深い闇に落ちて行った。
すぅ、と一条差し込む光の中、薄紅の鱗を真珠のように煌めかせながら舞い踊る。柔らかな尾鰭をシフォンのようにたおやかに揺らせば、艶やかな黒髪もゆっくりと棚引く。指先まで美しく、誰もが溜息を零した。 そして、パチンと音が響くと同時に声が掛かる。 「有人さん!そこまでで結構です」 良かったですよ、との兄弟子の声に、アルトは一度目を閉じ、大きく息を吐き出した。そうしてゆっくりと目を開き、体の中の空気を入れ替える。 「アルト君!」 ビタミンカラーの鱗を波打たせながら突進してくるランカの姿に、アルトは慌てて尾鰭を振った。すぅ、と一蹴り分後ろへ下がって、翡翠色の髪を揺らす少女に笑みを向ける。 「アルト君!すっごく、すっごく綺麗だった!」 ランカは胸の前で固く手を組んで目を輝かせながら、如何にアルトの舞が素晴らしかったか熱く語る。アルトは眦を緩めた。ランカは、いつもこうやって稽古の後にアルトを褒めてくれる。もちろん、おべっかでないことは、そのキラキラとした瞳を見れば分かる。だが、とアルトは長い睫毛を伏せた。 人魚の歌と舞は、海に住まう生物たちにとってこれ以上ない娯楽だった。彼らを楽しませ、心健やかにさせることが海の平穏に繋がる、と古くから言い伝えられているからだ。人間たちに言わせれば、人魚の歌は嵐を呼ぶ不吉な響きだと言うが、それは大いなる誤解である。海がうねれば、困るのは水棲生物たちだ。 それだけ、地上に住まう生物と海に住まう生物の間には、深く暗い断絶があった。 「それでも…」 と、ランカの声を聴きながら、アルトは僅かに上を見た。 「ランカちゃん!」 アメジストを連ねたような鱗を輝かせて、シェリルがランカの元にやってくる。 「シェリルさん!」 翡翠色の髪を揺らすランカに、シェリルはそっと手を取った。 「そろそろ歌のレッスン始まるわ」 ランカとシェリルは、海で一二を争う歌姫だった。彼女たちの歌を聴く為に、遥か遠い海から何日もかけてやってくる水棲生物がいる程の人気ぶりだ。それでも歌姫たちは、慢心することなく毎日レッスンを欠かさない。 「あら、アルト。さっきの舞、まぁまぁだったんじゃない?」 アルトの存在にようやく気付いた、とばかりにシェリルは改めて視線を向けた。 「お、おう・・・サンキュ」 思わぬシェリルからの言葉に、アルトは一瞬目を見開き、そしてすぐに礼を口にした。芸事に関して自分にも他人にも厳しいシェリルが、まぁまぁ、と評するなど滅多にあることではない。素直に称賛を受け入れると、シェリルはなぜか不満げに髪を掻き上げた。そして、ランカの手を掴む。 「ランカちゃん、行きましょ!」 シェリルに引っ張られながら去っていくランカに、アルトは小さく手を振って見送る。そして、アルトは息を吐き出しながら視線を上げた。 「きっと・・・・」 シェリルは、まぁまぁと言われた位で喜ぶな、と言いたかったのだろう。七つの海随一の歌姫と絶賛されながら、彼女は常に研鑽し続けていた。絶えず最高を求めて努力を厭わないその姿は、まさに歌の求道者。凛としたその横顔に、ランカが憧れを抱くのも当然の話だ。そんなシェリルから見れば、自分は酷く半端者に見えるだろう。 「…別に、舞うことが嫌いな訳じゃねぇんだけどな…」 アルトは、大きく尾を振った。ふわり、と体が浮かび上がり、海面を目指すように更に強く水を蹴る。 寸劇とは言え、物語には男女の悲喜交々が描かれていることが多い。その為、アルトは常に女性の役をやることを強いられてきた。男性の体でありながら女性に見えるよう、演出を務める父親の指導は苛烈を極め、幼い頃は私生活すら女性として過ごすことを厳命されていた。 「小さい頃は、何も思わなかった・・・・」 父親に言われるまま、アルトは指先の動きに至るまで女性らしくあるように、毎日が修行と信じて疑わなかった。そして、父から及第点を貰えるようになる頃、アルトは矢三郎と共に舞台に立った。その美少女然とした容貌と尾鰭に至るまで美しくたおやかな仕草に、アルトの評判は瞬く間に全ての海に広がった。遠くからアルトの舞を見ようと、たくさんの観客がこのコミュニティを訪れた。 良かった、と褒められることが嬉しかった。父親の頷き一つに、自分の存在意義を見出していた気がする。だが、体が男として成長するにつれ、ズレが生じ始めたのだ。求められるのは、女性として舞台に立つ自分だけ。父親から認められるには、男を捨てて彼が目指す舞台の為に、女として生きるしかない。何より、それを周囲さえも望むのだ。 誰もアルトを見ようとしない。アルトでいる限り、その存在に価値はない。意義を失くした自分は、どうやって生きるべきなのか。 「どう…なんて…」 自分を捨ててしまえれば、きっと簡単だったのだと思う。それでも、とアルトは海面を目指す。 「…なのに…」 誰にも言えなかった。もっと舞台に集中すれば良い、お役に入り切ってないから些末なことが気になるのだ、と何度も自分に言い聞かせた。だが、とアルトは自らの肩を抱く。下卑た表情を浮かべ、無遠慮に舐め回すように絡み付く視線は、どうしたって無視できなかった。そしてアルトは、遂に意を決して矢三郎に打ち明けた。 もう二度と舞台に立ちたくない、と。 だが、兄弟子は首を振った。 「何が、それだけ真に迫っている…だ…」 父親に心酔している兄弟子は、その言葉でアルトが救われると、心の底から思っているのだ。あぁ、とアルトは息を吐き出した。 「海の中は、息が詰まる…」 尾鰭を大きく振ると、ザバァ、と音を立ててアルトの体が海面から飛び上がった。そのまま、体を海面に横たえる。 目の前に広がる青い空。もこもこ、とどこまでも高く山のように連なる雲。ゆったりと揺れる波にその身を預け、アルトは深呼吸を繰り返す。 「広い世界だ…」 風が頬を撫でる感覚に目を細め、空を流れる雲をぼんやりと見詰めていると、その視界の端に大きな帆船が掠めた。アルトはゆっくりと体勢を変え、船の進行方向から逃れるように尾鰭を振った。 「うわっ…思ったより速い…」 すげぇな、と感嘆の声を漏らしつつ、アルトは目の前を行き過ぎる船を見送る。風が強いのか、帆が大きく膨らんでいる。 「あぁ…本当に凄い…」 兄弟子たちは、人間は野蛮だと言う。だが、とアルトは小さくなっていく帆船を、キラキラとした目で見つめながら、追い掛けるように泳ぎ始めた。 海を長時間泳げない人間は、離れた大陸へ渡る為に、体より何倍も大きい船を発明した。そして、荘厳な石造りの城を築く。 「人間ってすげぇな…」 ぱちゃ、と水音を響かせて、アルトは海面から顔を上げた。そして断崖に聳える城を見据え、唇の端を吊り上げる。不可能を可能にしよう、と人間は前に進むことを止めない。その道は、決して順風満帆ではなかっただろう。これだけ大きな城を建てるに至るまで、どれ程心が折れただろう。それでも、彼らは決して諦めなかった。だからこそ、これだけ高く勇壮な城を造り上げることができるのだ。 「あぁ…本当に、いつ見ても綺麗だ…」 青い空を貫くような尖塔に目を細め、アルトはこの城を初めて見た日の衝撃を思い出した。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 海の世界では見たこともない、大きな建造物。激しく打ち付ける波に抗うかのような、堅牢な城。その静かに、それでも力強くある姿に、自らの根底が揺らぎ不安を抱えているアルトの胸は、高鳴った。そして、時間も呼吸すらも忘れて見詰めていた。 その時だ、海へ張り出した上階のバルコニーへと続く窓が開き、人の姿が見えた。 「ヤバイっ!」 人間に姿を見られたと兄に知れたら、どんなお小言を貰うか。否、叱責だけならまだマシだろう。監視を付けられ、こうして外の世界を知る自由を奪われる可能性だってある。冗談じゃない、とアルトは逃げるように海中へ潜った。 刹那、頭上でドボンと何か重たい物が落ちる音が響いた。 「っ…あの野郎っ」 海の底へと急ぎ潜るアルトだったが、尾鰭を止めた。あの人間は、バルコニーからゴミを放り投げたのかもしれない。アルトは、強く拳を握り締めた。海の世界に辟易していたとしても、それでも海を汚されて何も感じない程、アルトは薄情な人魚ではなかった。アルトはくるりと体を返すと、海面に上昇すべく鰭で水を叩いた。 具体的に何をするか、など決めていない。ゴミを捨てた人間に反撃するのか、その顔を見るだけで済ませるのか。まるっきりのノープラン。直情的に、アルトは海面を目指した。そのアルトの視界の端を、何かが通り過ぎる。 「ゴミか?」 あの人間が投げたゴミだろうか。興味を引かれて、視線だけで追い掛ける。ゴボゴボ、無数の空気の泡の向こうに見えたのは、金色の髪の小さな人間。ゆら、と力なく揺れる脚に、アルトは思わず手を伸ばした。襟首を掴むと、更に強く鰭を振った。 「何考えてるんだ、あの人間はっ?」 人間は、アルト達人魚と違って、海の中では呼吸ができないと言うのに。何を思えば、あんな無造作に、子供を海に打ち捨てることができるのか。 「っ…そんなことより…」 一秒でも早く、この小さな人間を海中から出さなければ。腕に感じたことのない抵抗に眉根を寄せながら、アルトは泳いだ。そして…。 「よいっ…っしょ…と」 ザバ、と飛沫を上げながら、アルトは海の上に顔を出した。そして、力の限り少年を引っ張り上げる。その勢いのまま水面に横たえてみたが、アルトは小さく唸る。 「このまま…」 アルトは、小さく呟いた。このまま、城の近くまで連れ戻って良いものだろうか。そう、とアルトは唇を噛んだ。彼は、故意に投げ捨てられたのだ。その光景を思い出し、アルトは海水にべったりと濡れた金髪を見詰めた。こんな自分と年齢の変わらない、まだ少年と呼ぶには幼い子供を海に放り投げるには、きっと何かしらの理由がある筈だ。否、兄弟子が言うように、人間は粗野で乱暴だからこそ、それだけ非道なことができるのか。 「…でもなぁ…」 理由の有無に関わらず、この場に置いておくことはできない。浮かび続けることはできても、この小さな体では数時間もしない内に沖に流されて、二度と陸には上がれないだろう。アルトは、小さく頷いた。そう、拾ってしまった責任を果たすには、陸に送り届ける以外の選択肢はない。彼のその後の心配はまた別の話であり、アルトが考えることではない。 「よし・・・」 アルトは少年の顔に水が掛からぬよう、細心の注意を払いながら陸地を目指した。 陸に送り届けるのが自分の責任だ、ということは痛い程に理解している。それでも、自分と体格の変わらぬ少年を、あの断崖の上に立つ城に返すなど、できる筈もない。ならば、とアルトが目指したのは、城の西側に広がる砂浜だった。 だが、 「っ…重っ…んがぁぁぁっ……」 少年の襟首を掴んで、アルトは力の限り引っ張った。しかし、少年の体は僅かしか動かない。そう浮力のある海と抵抗しかない砂の上では、その進み具合は天と地の差があった。 「急がないとっ…おっ…重いぃぃぃ」 こうして藻掻いている間も、少年の顔には波が打ち寄せている。あれ程、水が掛からないように注意しながら泳いできたと言うのに、これでは全く意味がなくなってしまう。ちくしょう、と口の中で悪態を吐きながら、鱗はもちろん腹や胸が砂で汚れることも厭わず、少しでも波の掛からぬ場所へ、と砂の上を這いずる。 「…ふっ…ぐぬぅぅ…」 砂に肘を突いて、鱗が剥がれることも構わず砂を蹴る。それでも、とアルトは奥歯を噛んだ。思ったよりも進みが遅い。鰭に波が幾度も押し寄せ、アルトは唇を噛む。 「もし…」 ふと、アルトの脳裏に詮無い考えが過る。自分に脚があれば、もっと簡単に少年を安全な場所に運ぶことができるのかもしれない。そして…。 「いや…今は、こいつを運ばないと…」 頬に掛かる風を感じつつ、アルトは水を吸って重くなった少年の服を掴み、砂の上を進んだ。そして、濡れていない砂の上まで少年の体を引っ張り上げると、その隣に勢いよく倒れ込んだ。 「っ…重てぇ…」 ぜぇぜぇ、と肩で息を繰り返し、アルトは空を見上げた。そこには、人一人海に落ちたことなど些末事だ、と言わんばかりに、変わらぬ青空が広がっている。 「ぐっ…」 ふと耳を打った低い呻き声に、アルトは我に返った。自分の疲労回復より先に、確認すべきことがあった。 「呼吸!」 ここで呼吸が止まっていたら、せっかく苦労して助けた意味がない。アルトは砂の上を転がるように少年に近付くと、その唇に手を翳した。僅かに風を感じるが、とても弱々しい。 「おい!しっかりしろ!」 強く肩を叩き、耳元で声を張り上げた。だが、少年はピクリとも動かない。 「…これは、良くない状況だ…」 アルトは自らの疲労は見ない振りをして、更に少年へと体を寄せる。浅く胸が上下しているように見えるが、口元から漏れる呼吸音は相変わらず心許ない。 「そう言えば…」 以前、海に落ちた人間を人間が拾い上げて、何かやっていたのを思い出した。それを見た時は、何をしているのかさっぱり分からなかったが、今ならば何となく理解できる。あれは、 「息を分けてやってたんだな、きっと」 アルトは自らを納得させると、少年の金色の髪を梳いた。額に張り付く髪を指先で払い、海水に濡れた唇を見下ろした。 「これは…人助けだ…」 呪文のように繰り返して、アルトは少年の頬を撫でた。落ちる横髪を耳に掛け、頤を掬い上げるように指先で固定する。 「人命救助…」 断じてキスなんて軟弱な行為ではない、とアルトは眦を吊り上げ、大きく息を吸い込んだ。そして、少年の唇に自らのそれを重ねる、刹那、 「っ…ごほっ…ゲホっ…ぐっ…」 少年が激しく咳き込んだ。アルトは仰け反るようにして、慌てて離れた。ドクドク、と心臓が煩いのは、きっと少年が急に息を吹き返したからに違いない。 「おい、大丈夫か?」 飲み込んだ海水全てを吐き出そうとしているのか、咳の間にゴボゴボと水音が混じり始める。アルトが少年の体を横に向けると、咳き込みながら砂の上に吐瀉物をぶちまけ始める。 「大丈夫か?」 その背中を擦ってやりながら、アルトは繰り返し声を掛けた。咳も嘔吐もしているが、反応がないのだ。恐らく、まだ意識は戻ってきていないのだろう。 「おい…しっかりしろ…」 声を掛けて、背中を擦ってやることしかアルトにはできない。人間は海水を飲めないし、体が水に濡れれば体温が奪われて生命の危機に瀕する。 「オレが…」 それは、少年を砂浜に引き上げている際も過った、詮無いこと。だけど、とアルトは唇を噛んだ。せっかく助けた命なのに、最後の最後で手放すことになるのか。ちくしょう、と落ちた掠れた声に、小さな呻き声が重なった。 「う…ぐ…ぅ」 吐き出す物がなくなったのか、少年はゼェゼェと荒い呼吸を繰り返しながら、力なく砂の上に転がった。汚れた口元が不快なのか、少年は袖口で口を何度も拭っている。これならばもう大丈夫だろう、と思いつつ、アルトは様子を窺うように少年の顔を覗き込んだ。その時、 「あ…」 声を漏らしたのは、どちらだろう。髪と同じ金色の睫毛が揺れ、その隙間から落ちたエメラルドグリーンの光に、アルトは弾けるように急いで海へと飛び込むのだった。
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