どしゃぶりの雨

 

 

 ア

 

 

アルトは目頭を押さえて、大きく息を吐き出した。高校二年生の集大成、最後のレポートの締め切りまであと三日。進捗状況は、極めて芳しくない。同じタイムスケジュールで動いていた筈のミハエルは、締め切り一週間前に提出済み。その事実だけでも腹立たしいのに、ミハエルは山積みの資料を前に唸るアルトに、嫌みのように正論を吐きやがったのだ。

「っ・・・何が、姫はもっと時間の使い方を覚えた方が良いよ、だよっ!」

 眼鏡のブリッジをグイと中指で押し上げて、ふふん、と小馬鹿にしたような笑みを浮かべて。思い出すだけで、沸々と怒りが込み上がってくる。

「・・・・それにしても、ミシェル・・・・遅いな・・・・」

 オズマから緊急の呼び出しを受けて、慌ただしく出て行ってそろそろ二時間。一体、何を話し込んでいるのか。

「まぁ、オレには関係ないか・・・」

 昇進話なのだろうか。アルトは、不意にモヤモヤとし始めた腹を摩ると、改めてディスプレイに向き直った。と、シュンと空気の抜けるような音が響き、鉄のドアが開いた。

「おかえり」

 振り返りつつ声を掛けたアルトは、思わず固まってしまった。まるで、亡霊のように表情の失せたミハエル。浅くない付き合いだが、こんなミハエルは初めて見た。果たして、オズマとどんな話をしてきたのか。

「ミシェル?何かあったのか?」

 アルトは簡易椅子から立ち上がると、ぼんやりと立ち尽くすミハエルの正面に立った。ガラス越しのエメラルドグリーンは、帰り道を忘れた子供のように落ち着きを失っている。

「ミシェル?」

 何も答えないミハエルに、アルトは痺れを切らして顔を覗き込んだ。刹那、ミハエルの腕が動いた。有無を言わさぬ早業で、ガバリとアルトを抱き寄せた。肩口に額を擦り付け、苦しい程に抱き締める。まるで甘えるようなミハエルの仕草に、アルトは何も言えなかった。そう、アルトの前でさえ無駄に格好を付けようとするミハエルが、こんな風にプライドも何もかなぐり捨てて縋り付いてくるなど、滅多にあることではない。オズマから、よっぽど厳しいことを言われたのだろうか。

「・・・・姫・・・・」

 耳朶に触れる吐息も震えている。アルトは返事の代わりに、ポンポンと優しくミハエルの背中を叩いた。それは、母親が幼子を安心させるように。

 ミハエルの唇から、ホっと息が漏れる。強張っていた体から余分な力が抜け、力の限り抱き締めていた腕が緩んだ。アルトも息を吐き出し、そのまま体を離そうとするが、ミハエルの腕がそれを許さない。改めて抱き寄せられて、甘えるような声音が耳朶を擽る。

「姫・・・・えっちしよう?」
「はぁぁぁ!何バカなこと言ってるんだよ!」

 藪から棒にも程がある。何よりミハエルと違って、こちとらレポートが終わっていないのだ。そう、こんなミハエルが簡単にアルトを離す訳がない。間違いなく、明日一日ベッドに伏すことになる。そうなれば、レポートは絶望的だ。だが、ミハエルは諦めない。

「ねぇ、姫・・・・だめ?」

 拒絶を恐れるエメラルドグリーンに、ねだる声。ミハエルは、アルトと体を重ねることで安心を得ようとしているのか。アルトは、大きく息を落とした。

「・・・・分かった・・・・責任、取れよな?」
「ありがとう、姫。愛してる・・・・」

 レポートは、ミハエルに手伝ってもらおう。嫌、とは言わせない。アルトは挑むようにミハエルを見詰め、そして重なるミハエルの唇に全てを委ねた。