シエルとチョコレート工場
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これは、ファントム社創成の記録である。
パチパチと暖炉で薪が爆ぜる。赤い炎を白い頬に受け、まだ坊やと呼ぶに相応しいシエル・ファントムハイヴは、母の優しい眼差しに見守られ一人遊びに忙しい。 「ただいま、私の可愛いシエル」 扉が開き、カツンと靴音を響かせて現れた父に、シエルは立ち上がった。 「お帰りなさい、お父様ぁ!」 力の限りジャンプして、大好きな父の腕の中に飛び込んだ。父親は可愛い我が子を抱き上げると、その蒼い瞳を覗き込む。 「今日も良い子にしていたかい、シエル?」 ハイ、と行儀よく答える幼いシエルに笑顔を返すと、父親は胸ポケットから赤い包みを取り出した。大きくMの文字がプリントされたそれを小さなシエルに手渡して、彼は母親の座るソファーに腰掛ける。 「あら、シエル。良い物を貰ったわね?」 優しい母の声に、ソエルは大きな膝の上で大きく頷いた。あけてごらん、と父親に促されて、シエルは小さな指でペリペリと包みを剥がす。赤い包装紙を開き、薄い紙を破ると部屋中に甘い香りが広がった。 「チョコレートだぁ!」 目を輝かせるシエルに、両親の顔も綻びる。父は、チョコレートを幼い我が子の小さな口に入るように割りながら、口を開いた。 「このチョコレートはね、シエル。英国で一番、いや、世界で一番人気のチョコレートなんだよ」 父親はまるで自分の手柄のように胸を張ると、一口大に砕いたチョコレートをシエルの口の中に放り込んだ。実際、世界一と評されるミカエリスチョコレートは、入手困難なことでも有名だった。伯爵家でありながら、貴族の中でも重要な立場にあるファントムハイヴでも、簡単に手に入れることはできなかったのだ。両親もそれぞれ破片を口に入れ、幼いシエルを覗き込んだ。 「シエル、美味しい?」 優しい母の問いに、シエルは眉間に皺を寄せた。 「苦いのしら?」 まだ幼いシエルには苦かったか、と両親は顔を見合わせる。だが、シエルはふるふると首を振った。 「苦くないです」 チョコレートは甘く、舌が蕩けてしまうようだ。けれど、とシエルは口の中のチョコレートを転がして、拙い言葉を紡ぐ。 「でも・・・・・ちょっと、上手く言えないけど・・・・・何か足りない?」 甘くて美味しいと思うが、世界で一番人気のチョコレートと言われると、首を傾げてしまう。そんなに、熱狂するほど美味しいとは思わない。 「あらあら、シエルはグルメね」 「誰に似たんだろうなぁ」 両親は顔を見合わせると、笑顔を弾けさせた。父の大きな手がシエルの頭を撫でる。その穏やかな感触が大好きで、シエルは父親の顔を見上げた。 パチパチと爆ぜる暖炉の音。 赤い炎が、シエルの全てを焼き尽くしていく。
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与えられた自室のベッドに横になって、悪魔は唇を歪めた。夜は更け、ガタガタと風が窓を叩く。ザァと木々の揺れる音に、悪魔は小さく笑う。 これまで契約を結んできた人間は、皆自分の強大な力に我を忘れ、勝手に沈んで行った。その残された魂の、なんて味気のないことか。そんな退屈で、砂を噛むように魂を喰らうことに、何の意味があるのだろうか。悪魔にとって、退屈は何よりも忌避すべきこと。なのに、契約を結ぶ度にそんな退屈な日々を繰り返さ
れる悪夢。そんな日々を一体どれ程過ごしただろうか。そして、緋い瞳の悪魔は契約を結ぶことをやめた。他の悪魔から嘲笑されても、自らの美学に則る魂以外を拒絶した。どうせ口にするのなら、最高の魂だけでいい。そんな潔癖症染みた想いを抱きながら、悪魔は悪戯に時間だけを重ねて行った。 そして、飢えに飢えたその日。悪魔は気まぐれに召喚に応じた。自分を呼ぶ強い声。その声音に、悪魔は確かに何かを感じたのだ。 本当に契約を結ぶに値する魂か、確かめる必要がある。その為には、とセバスチャンは体を起こした。箱を用意しよう。そして、本当にあの小さな主が、自分の美学に添う魂であるか測る為に、いくつかの駒も用意して。 壁に映る影が、蝋燭に合わせてユラリと動いた。
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シエルは、悪魔にセバスチャンの名を与えた。それは、悪魔との契約締結を意味する儀式。魂の所有者を書き換え、契約終了までの悪魔への命令権を得る。普通の人間であれば躊躇う魂の移譲。だが、遠からず死ぬ運命にあったシエルに執着はない。それ如きで悪魔を従え、復讐を果たせるとしたら安い物だ。 香りの高い紅茶に口を付け、セバスチャンが焼いたシブーストを頬張る。 「如何でしょうか?」 燕尾服に身を包んだセバスチャンは、珍しく殊勝な表情で小さな主の返事を待つ。 「甘くはなったが、りんごの風味を損なっている」 カランとフォークを投げて、シエルは肩を竦めた。最初の頃に比べれば、味があるだけマシかもしれない。何せ、初めてセバスチャンが用意したスイーツは、見栄えこそは有名パティシエが作った高級スイーツも顔負けの素晴らしい物だったが、一切の味というものが感じられなかったのだ。まるで、蝋細工を食べている気分だった。 シエルはカップに口をつけると、首を傾げる。相手が万能の悪魔とはいえ、味はともかく盛り付けのセンスや飾りつけなど、一朝一夕で習得できるものだろうか。 「セバスチャン。お前の前職は何だ?」 ファントムハイヴ家の使用人として雇うからには、一応知っていなければならない事項であろう。しかし、セバスチャンは皿を下げながらニッコリと笑う。 「ただのしがない悪魔ですよ?」 空いたカップに紅茶を注ぎ、セバスチャンは笑顔の仮面でシエルの疑問を封じる。シエルは不満だと言わんばかりに眉間に皺を刻むと、感情も露にセバスチャンを睨み付ける。そんな新たな主人の反応に、セバスチャンは知らず唇を綻ばせた。 「ところで、坊ちゃん。復讐を果たされるのが望みと伺いましたが、相手は分かっているのですか?」 あの場にいた人間は、シエルの命令に従い一人残らず殺してきた。それ以外にも、殺したい人間がいると聞いて、少なからず驚いたのを覚えている。 「・・・・・・いや・・・・・」 カチャンとカップをソーサに戻して、シエルは力なく首を振った。両親を殺し、自分の尊厳を踏み躙った憎き相手。できることなら、この手で引導を渡してやりたい気分だ。いや、死んだ方がマシだと思える地獄を味合わせてやろう。 「ならば、どのように見つけるつもりですか?」 シエルはセバスチャンを見上げた。幾ら万能の悪魔でも、犯人までは分からない、と言うのか。シエルは肩を竦め、カップを覗き込んだ。揺れる琥珀色に映る、無様な自分。悪魔が自分に何かをしてくれるなど、幻想もいいところだ。シエルは、チラリとセバスチャンに視線を投げた。所詮は、手足の延長のような存在なのだ。シエルの命令がなければ、動きもしない。シエルは、体中に溜まった空気を吐き出すように深いため息を吐き出すと、冷たくなった紅茶を煽る。 「正直なところ、犯人の動機が分からない」 それは、囚われてからずっと、シエルが考えていることだった。ファントムハイヴ家を襲撃して、一体何の得があるのか。ファントムハイヴ家が所有する、広大な土地だろうか。だが、とシエルは首を振る。ファントムハイヴ家が死に絶えようとも、それらの管理は親戚であるミッドフォード家に委託されるのではないだろうか。では、とシエルは視点を変える。金でなければ、恨みか。もしくは、ファントムハイヴ家の地位を快く思わない者達がいるということか。貴族の勢力図を知らぬシエルには、判断の付かない部分ではあるが、それならば考えがある。 酷薄に唇を歪める小さな主の姿に、セバスチャンは内心舌を巻いた。空のカップに紅茶を満たし、シエルの言葉を待つ。 「派手にファントムハイヴ家が復興すればいい」 相手は屋敷を焼き払い、ファントムハイヴ家を完全に闇に葬った気でいるのだ。ならば、世間的に注目を浴びる形で復活を遂げたらどうなるだろうか。クスっとシエルは笑みを漏らした。きっと、慌てふためいて事実確認に走ることだろう。それこそが、チャンス。その無様な尻尾を踏んづけてやる。 「具体的な手法はお決まりですか?」
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