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牽制
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| 通勤通学と言うのは、とにかくツライものである。酷い時には、朝目を覚まして布団を出るより早く「帰りたい」と口から零れ落ちる程だ。
そんな日々をどうにか乗り越えるには、何かしら気持ちの上がる物が必要だ。 「何か…」 新たな転属先へ赴任して早一週間。美味しいコーヒー屋さんでも何でも見つけないと、と思いながら駅を出たその目に飛び込んできたのは、天使の輪が眩しい黒髪だった。 繊細に切り揃えられた艶やかな長い髪。頭の高い位置で、きりり、と結い上げられて、背中の上で黒髪と紅い組紐が弾む。 「……美しい……」 その後ろ姿に、嘆息が落ちる。 そう、美しい以外の言葉があろうか。いや尽くそうと思えば、幾らでも美辞麗句を連ねられるだろう。だが、その『美』の前では、ありとあらゆる言葉は陳腐に成り下がり、何一つ伝えられない。伝達能力を失ったそれは、最早無用の長物。その場で平伏したくなる衝動をどうにか抑えて、男は毎日の糧を見出した。
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「ん?」 ふと誰かに呼ばれたような気がして、アルトは振り返った。だが、そこに知り合いの顔はなく、自分の気のせいだ、と結論付けてアルトは歩き始めた。 そう、とアルトは青い空を見上げて呟く。舞台に立っていた頃は、時折街中で振り返られることもあったが、それでも稀なこと。すっかり一般人として、社会に溶け込み始めた自分に注目する人間など、いやしないのだ。特に、 「アルトくーん!」 おはよう!と翡翠色の髪を弾ませて追い掛けてきた超時空シンデレラに、アルトは僅かに手を上げて応えた。自分の周囲には、銀河級の有名人が二人もいるのだ。既に表舞台から去った役者崩れなど、眼中にも入らないだろう。そう、自分に向けられる視線など、皆無なのだ。 「今日は授業に出られるのか?」 シェリル同様、分刻みのスケジュールをこなすアイドルは、学業もままならない忙しさだ。 「午前中だけなんだ」 ランチは一緒できないの、とランカは残念そうに溜息を吐いた。親友であるナナセと、ゆっくりお喋りできない日が続くことが辛いのだろう。 「相変わらず忙しそうだな…睡眠はきちんと取れてるのか?」 歌やダンスのレッスン、そこに学校からの課題が加われば、睡眠時間を削る以外に時間を捻出する術はない。 「大丈夫、一応取れてるよ」 そう言ってランカは、快活に笑って見せる。だが現実は、体が資本のアイドルが結果的に不健康になる道を選択しなければならないのだ。アルトも舞台に立っていた頃は、似たような生活をしていたからこそ、その苦労が良く分かる。特に、父親は舞台以外のことは、全て些事だと考えている節があった。 「アルト君は?忙しい?」 そう言って、アルトは肩を竦めた。訓練やロードワークが増えるのも勘弁願いたいが、アルトたちSMSが忙しいと言うことは、少なからず傷つく人がいると言うこと。争いが少しでも早くなくなれば良い。 「そうだね…」 分厚い天蓋に覆われた作り物の空を見上げて、ランカは小さく頷いた。そして、その視線に街を彩るホログラムを捉え、僅かに目を丸くする。何事かとアルトも目を向けると、そこにはシェリルが広告塔を務める化粧品メーカーの広告と、現在時刻が映し出されていた。 「…少し急ぐか…」 遅刻する程ではないが、少し急いだ方が良いだろう。そう提案するアルトにランカも大きく頷き、二人は足早に学校へと急ぐのだった。
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ランカとアルトが教室に滑り込んだのは、始業ベル開始の五分前だった。 「ギリギリセーフだな、シンデレラ?」 クスリ、と笑って声を掛けるミハエルに、アルトはカっと眦を吊り上げた。 「誰がシンデレラだ!そもそもミシェルが白状に人のこと置いて行くから…」 起こさなかったお前が悪い、と言わんばかりのアルトに、ミハエルは呆れたように肩を竦める。 「結構長い時間声掛けたぞ。それに、今朝は顧問に呼ばれてるから早く出なきゃダメだって話、昨夜した筈だけど?」 格納庫ランニングの後、ベッドにひっくり返りながら夢現で聞いたような気がする。唸るアルトに、ミハエルは肩を竦めて席に着く。そんなミハエルの背中を、ルカが遠慮がちに突いた。 「どうした?」 振り返るミハエルに、ルカは苦笑にも似た複雑そうな笑みを浮かべている。 「今の会話聞こえてた人たち、びっくりしてますよ」 ルカの言葉にミハエルが周囲を窺うと、ミハエルとアルトを交互に見て呆然としている者、同居?同棲?と言葉を交わす者など様々だ。 「僕は、お二人が宿舎で同じ部屋だって知っているから驚きませんけど、事情を知らない人からすると結構ビックリしますよ」 傍から聞いていたら、同棲カップルの可愛らしい痴話喧嘩にしか聞こえない。それ故、学生の身でありながら既に寝食を共にする関係になるとは、と中には頭を抱えて青ざめている生徒の姿もある。気軽なお付き合いとは違う、更に一歩踏み込んだ関係になっていたとは、と女子生徒ばかりではなく男子生徒も絶望し、目が虚ろだ。 「別に、事実を触れて回る必要もないだろう」 どこか満足気な表情で、ミハエルは眼鏡のブリッジを押し上げる。まぁ、とルカは肩を竦めた。SMSでアルバイトをしていること自体は話しても問題ないだろうが、運送部門ではなく護衛任務がメインの業務であることは機密事項である。しかもバジュラが襲来する度に、新統合軍よりも更に前線で戦っているなど、きっと誰も信じないだろうが。 それにしても、とルカは始業ベルと共に教室に入って来る教師を眺めながら、先程のミハエルの表情を思い出す。 「先輩、何であんな表情したんだろう?」
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