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「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ・・・・・・・・・・・・」
自分の声に驚いて、シエルは跳ね起きた。嫌な汗が額から伝う。
「・・・・・・・随分と・・・・・」
呟いた声は、酷く掠れていた。シエルは無意識に脇腹に手を伸ばし、ギュッと寝巻きを握り締めた。随分と忌々しくも懐かしい夢を見たものだ。シエルは動揺する心を落ち着けようと、大きく息を吐き出した。消えない傷があるように、消せない過去がある。そして、決して逃げることもできない。
シエルは薄暗い部屋で、膝を抱えた。ガクガクと震えが止まらない。現実と夢の境界が分からない。いや、とシエルは首を振る。境界が分からないんじゃない。どちらが夢で、どちらが現実か分からない。自分は未だ囚われていて、現実を認めたくなくて妄想を作り出しているのではないだろうか。人外の者を従える少年伯爵など、読み物としては良く出来ているが、現実離れも甚だしい。
「おはようございます、坊ちゃん。お目覚めの時間でございます」
控えめなノックの音と、聞き慣れた執事の声。染みるようなセバスチャンの静かな声に、シエルは小さく呟いた。
「・・・・・・僕が信じるコチラが現実に決まっている」
ケットを握り締めて、震える声で言い聞かせる。シエルが使役するのは、低級な使い魔などではない。悪魔なのだ。しかも、シエル同様爵位を持つ。気を引き締めねば、いつ悪魔が心変わりするか分からない。
「おはようございます。あぁ、既にお目覚めでしたか」
言外に、珍しい、と笑うセバスチャンに、シエルは腹の下に力を入れて答えた。
「目覚めが悪かった」
セバスチャン程の悪魔が、何も持たぬ小さな子供と契約するなんて奇跡以外の何物でもない。そう、この契約は気紛れなのだと、言われているようなもの。セバスチャンの望む魂であり続けることが、契約上の暗黙のルール。弱っている姿など見せれば、不興は買えても同情は引けない。
「夕べは寝苦しかったようですね」
アーリーモーニングティーと新聞を先にシエルに渡して、セバスチャンは次々とカーテンを開けていく。眩しい光に目を細めながら、シエルはカップに口を付けた。ミルクティーを用意されている所を見ると、どうやらシエルの心の内など筒抜けらしい。
「今日は、ご朝食の前にお風呂を先にご用意致しましょう」
空いたカップに紅茶を注ぎながら、セバスチャンは柔らかく笑った。
「風呂?」
セバスチャンの意図が分からず、シエルはキョトンと首を傾げた。幼さを残した仕草に、セバスチャンは表情を和ませた。そして、そっとシエルの額に手を伸ばす。
「少し暑かったですか?」
濡れた前髪を払われて、シエルは初めて自分が汗を掻いていたことに気づいた。言われてみれば、寝間着は汗を吸いグッショリと重たい。纏わりつく汗の不快感に少しだけ別の感情を紛らせて、シエルは息を吐き出した。
「あぁ、少し暖炉の火を小さくしても良いかもしれないな」
過去の檻に囚われていることなど微塵も感じさせぬよう、張り付く前髪を掻き上げながら、シエルは気丈に言い放った。そんな主人の姿に、セバスチャンは意味深く淡い笑みを浮かべる。
「では、本日よりコークスの量を加減致します。寒いようでしたら、お申し付け下さい。では、私はお風呂の支度をして参りますので、少々お待ち下さいませ」
最後にシエルのカップに紅茶を注ぐと、セバスチャンは深く頭を垂れて下がった。
◆◆◆◆◆◆
パチャンと湯の中に沈み込んで、シエルは漸く詰めていた息を吐き出した。
あれからセバスチャンに体の隅々まで清めさせ、汗と共に絡みつく感情を洗い落とした。そして、ゆっくり感情を落ち着けるためにセバスチャンを下がらせたのだ。
水を吸って重くなったタオルと髪を湯船の縁に預けて、シエルはぼんやりと天井を見上げた。一体、何時になったらこの悪夢を消化できる日がくるのだろうか。あの日々がなければ良かったなどと考えたことはない。ただ、いつまでも逃れられずにいる自分が酷く惨めだ。シエルは無意識に手首を掌で包み込み、ゆっくりと首を摩る。もうシエルを戒める鎖などないのに、未だ何に縛られていると言うのか。
「馬鹿馬鹿しい・・・・・」
シエルはお湯を両手で掬うと、そのまま顔を洗った。モヤモヤと表情の切り替わらない自分を洗い流すように、しっかりと擦る。その時だ、バスルームの扉を遠慮がちに叩く音がする。
「恐れ入ります坊ちゃん。至急ご確認いただいた方が宜しいかと思われる物が届きました。入室しても宜しいでしょうか?」
セバスチャンの声に、どうやら長湯を咎めるつもりはないらしい。シエルは小さく首を傾げた。主人のリラックスタイムを妨害しなければならない急ぎの用とは、一体何だろう。
「・・・・下らなかったら承知しないぞ」
入れ、と声を掛けると、セバスチャンは銀色の盆を恭しく掲げてやって来た。どうやら、手紙のようだ。
「誰からだ?」
「それは、坊ちゃんに直接ご確認頂いた方が・・・・・」
セバスチャンの言葉に、シエルはタオルで手を拭くと銀盆から白い封筒を取り上げた。シンプルな封筒に、流麗な文字でシエルの名前が記されている。シエルは首を傾げながら、手首を返して差出人を確認する。しかし、差出人の名前はどこにも記されていなかった。ただ、紅い封蝋が押されていた。
「・・・・・・っ!」
その紅いシールは、この英国で最も美しく気高い印。その名を口にするのも憚れる存在、我らが大英帝国の母の物。
「セバスチャン、開封しろ」
シエルの顔色が変わる。女王陛下からの直接の書簡となれば、その話題は一つしかない。セバスチャンは丁寧に且つ素早く封を開けると、シエルに再び手紙を渡した。シエルは手紙を開くと、眉根を寄せて文字を追い始めた。
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