バンビーノ

 

 

ファントムハイヴ家の執事たるもの、どんな不測の事態でも決して慌てたりはしない。ましてや、それが慣例化しつつあることなら尚更。眉根一つ動かさず、当然の如く深く頭を下げる。
「劉様。ようこそお越しくださいました」
「やぁ、執事君。伯爵、いる?」
 いつものように飄々とした笑みを浮かべて、劉はヒラヒラと手を振って見せた。そんな客人の態度に、セバスチャンは小さく肩を竦める。
「本日はどのような御用でしょうか?」
「そうだねぇ。強いて言うなら遊びに来たよ」
 これと言った用事がないのも、いつものこと。こうしてシエルの予定が狂って行くのも、最早慣れた。どうせ、シエルが忙しいと主張したところで、究極のマイペースの持ち主には通用しない。逆に、せっかく遠路遥々来たんだよ、と嘆く仕草でシエルのペースを乱して気付いたらディナーまで一緒に取っていた、なんてよくあることだ。
 セバスチャンは諦めにも似たため息を吐き出すと、劉を応接室へと案内した。

 

「では、坊ちゃんを呼んで参りますので少々お待ち下さい」
「よろしくね〜」
 ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべて、劉はセバスチャンに手を振って見せた。セバスチャンは一礼して応接室を出ると、執務室へと急いだ。途中でバルトにお湯を沸かすように指示して、飴色の扉の前に立つ。意匠の施された、伯爵家の執務室を守るに相応しい堅牢な扉。セバスチャンは表情のない顔で、堅い扉をノックする。
「坊ちゃん、お客様がお見えです」
 飴色のデスクに向かって書類と格闘していたシエルは、セバスチャンの言葉に目を丸くした。
「客だと?今日は来客の予定など入ってなかったんじゃないのか?」
 カランとペンを投げると、シエルは思いっきり背を伸ばした。この退屈な仕事から解放されるなら、渡りに船と言った所か。もちろん、セバスチャンにはシエルの浅慮などお見通し。散らばった書類を整えながら、残量を確認する。
「残りは明日中にサインをお願い致しますね」
 ニッコリと音が聞こえるように微笑むセバスチャンに、シエルはゲンナリと机に突っ伏した。お行儀が悪いですよ、と窘めてセバスチャンは来客の名を告げる。
「劉様がいらっしゃいました」
「劉が?劉の用件は何だ?」
 どうせロクな用事ではないだろう。劉は、実に些細なことで訪れる。来訪が嫌だ、と言う訳ではないが、こちらの事情を一切考慮しない姿勢は、どうよ?と言いたくなる時もある。
「急ぎの用、という訳ではないそうです」
 セバスチャンの答えに、シエルは肩を竦めた。案の定だ。
「お茶の準備をしろ」
 シエルはノロノロと立ち上がると、セバスチャンを仰ぎ見た。
「イエス、マイロード」

 

◆◆◆◆◆

 

「やぁ伯爵。元気そうだねぇ」
 細い目を更に細めて、劉は手を振って見せる。この酔狂が服を着て歩いているような男が、上海マフィアの幹部なのだから、人は見かけに因らないものである。
「では、坊ちゃん。私はお茶の準備がございますので、下がらせて頂きます」
 頭を垂れるセバスチャンに、シエルは小さく頷くと、劉の前に腰を降ろした。そして、セバスチャンが下がるのを確認すると、脚を組み真っ直ぐ劉を見据える。
「それで、今日は何だ?」
 どうせ大した用事ではないんだろう、とごちるシエルに劉はニヤリと笑って見せた。
「伯爵、あまり我を見くびらない方が良いよ?」
 場の空気が一転する。シエルは眦を引き上げて、鋭い視線を劉に浴びせた。だが、相手も裏世界の住人。シエルの眼光だけで退くはずもない。劉は状況を楽しむかのように唇を歪めると、テーブルの上に白い箱を置いた。濃紺のリボンが掛けられているそれは、この空気の中では酷く場違いだ。だが、とシエルは劉を盗み見た。敢えて、この空気の中で出すことに意味があるのだろう。
「何だ?この箱は」
 顎でしゃくれば、劉は楽しそうに笑う。
「伯爵、開けてごらんよ」
 シエルを挑発するかのような声音。シエルは溜まる唾液を飲み込んだ。