バンと窓の爆ぜる音に、シエルは目を醒ました。バチバチとまるで石つぶてが窓にぶつかる音が響き、暗い部屋の中で不気味に窓が音を立てる。
シエルはのっそりと起き上がると、ベッドから這い出した。カーテンを小さく開け、外の様子を伺う。
「・・・・雨」
いや、むしろ嵐と言って良いだろう。窓の外では風が唸り声を上げ、大粒の雨が狂乱の如く地面や屋敷の壁に叩きつけられる。空が薄明るい事から、夜明けは向かえているようだ。
「・・・・何で・・・」
嵐が過ぎ去る気配はない。シエルはイライラとカーテンに爪を立てた。
◆◆◆◆◆
「坊ちゃん、明日は如何なさいますか?」
ディナーの子羊のグリルに舌鼓を打つシエルに、セバスチャンはワインを注ぎながら声を掛けた。シエルは、ムグムグと口の中の物を咀嚼し飲み下すと、不思議そうな表情をセバスチャンに向ける。
「明日?」
「えぇ、明日はガヴァネス達もいらっしゃいませんし、片付けて頂きたい書類もありません。簡単に申し上げますと、坊ちゃんの明日のスケジュールは白紙でございますので、如何様に一日を過ごされるのか、と思いまして」
暗に怠惰な一日を過ごさぬように、釘でも刺しているようだ。シエルはグラスを傾けながら、思案する。しかし、思いつくのはセバスチャンが眉を潜めそうな物ばかり。馬鹿正直に、昼過ぎまで惰眠を貪り、その後アフタヌーンティーでスイーツを堪能する、と口にするのは得策ではない。シエルはグラスを置くと、セバスチャンに真っ直ぐ視線を向けた。
「その口振りだと、何か案があるみたいだな」
シエルの指摘に、セバスチャンは嬉しそうに表情を緩める。
「久しぶりに、馬に乗っては如何ですか?森の中でのアフタヌーンティーも宜しいかと存じますが」
「・・・・・・・馬か・・・・・」
グラスの中で赤い液体を揺らしながら、シエルはポツリと呟いた。確かに、最近馬に乗っていない。正直、最後に乗ったのが何ヶ月前だったかすら記憶にない。シエルは少しだけ唇の端を持ち上げた。どちらかと言えば、乗馬は好きな部類に入る。何も考えず、颯爽と風を切るのは悪くない。それに、とシエルは考える。色付き始めた葉を見ながらのアフタヌーンティーも、確かに魅力的だった。シエルはワインで唇を濡らすと、セバスチャンにゆっくりと視線を向けた。
「悪くないな」
「ありがとうございます。では、本日中に馬の用意をしておきましょう」
主人に提案を受け入れられたことを深く感謝し、セバスチャンは心なし表情を緩めたシエルに少しだけ目尻を下げた。
◆◆◆◆◆
シエルは大きく息を吐き出すと、怒りまかせにカーテンを閉めた。
子供っぽい八つ当たりだと分かってはいるが、乗馬を内心ひどく楽しみにしていたせいで、心が波立つのを押さえきれない。シエルは落ち着こうとベッドに潜り込んだが、怒りの為か世界がグラグラと揺れているようで儘ならない。目を強く瞑っても、ガンガンと何かを主張するような心音が煩くて眠れそうもない。
シエルはもぞもぞと布団の中で寝返りを打つ。このまま消化不良の感情を抱えて、セバスチャンが起こしに来るのを待つと言うのか。それは、結果的に自分の幼さを露呈する未来を示している。それでも、とシエルはシーツに爪を立てた。どうすればこの荒れる心を押さえ込めるのだろうか。それは、この嵐を晴らす術を探すようなものだと、シエルに分かるはずもなかった。
◆◆◆◆◆
それから、どれ程の時間が経ったのだろうか。控えめなノック音に、シエルはぼんやりと目を開けた。どうやら、ウトウトしてしまったようだ。
「おはようございます、坊ちゃん。お目覚めの時間でございます」
カチャカチャとカップとソーサーのぶつかる音が微かに聞こえる。シエルは上体を起こすと、焦点の合わぬ瞳でセバスチャンの姿を追いかける。セバスチャンは、シエルが起きていることに気付いていないのか、カーテンを開けて回る。
「生憎、本日は嵐ですね。・・・・乗馬はまたの機会に致しましょう」
残念ですね、と呟いてセバスチャンは天蓋を開けた。
「あぁ、お目覚めでございましたか」
普段の三割り増しの仏頂面に、セバスチャンは小さく肩を竦めた。寝足りない、という主張ではなさそうだ。いや、とセバスチャンは小さく首を振る。シエルの不機嫌の理由など、一つしかない。もちろん、それを見誤るようでは執事失格。
「本日は、トワイニングのイングリッシュブレックファーストをご用意致しました。是非、ミルクティーでお楽しみください」
嫌味なほど的確にシエルの精神状態を汲み取ったチョイスである。シエルは複雑そうな表情をセバスチャンに向けて、カップを受け取った。鼻腔を擽る柔らかな香りに、確かに心が静まっていくのが分かる。ミルクの円やかな口当たりに、強張っていた体から力が抜けていく。
シエルはカップを傾けながら、セバスチャンを盗み見る。緋い瞳は何でもお見通し、とでも言うのだろうか。それが、余計に癪に障った。それは、セバスチャンは自分を分かりやすい子供だと言っているに等しい。
「今日は読書でもなさったら如何ですか?」
皺一つない新聞を受け取りながら、シエルは憮然とした声を響かせた。
「何だ、本当に今日は何にもないのか」
「はい。目を通して頂きたい書類は、明日以降にならないと届かないそうです。せっかく坊ちゃんがやる気になったと言うのに、大変申し訳ございません」
言外に普段はやる気がない、と指摘されてシエルはより憮然とした表情を浮かべた。やる気がないのではない。面倒くさいだけなのだ、と口の中で呟きながら、シエルは新聞に目を落とす。
我らがグレートブリテンは、女王陛下の庇護の下、本日も平和であるらしい。良いことだ、などとシエルは爪の先ほど思わない。新聞が伝えることが、世界の全てではないのだ。紙面に載らない悲劇など、掃いて捨てる程転がっている。それに、とシエルは新聞を捲る。誰かの手によって編集されたそれは、既に客観性を失っている。それを念頭に置いて読まねば、真実を見誤り、踏み出すべき道さえ見失う。否、踏み出した瞬間に崩れる方が悲劇かもしれない。
「確かに、読書くらいしかやることはなさそうだな」
シエルは肩を竦めて、カップを傾けた。読書は好きだ。だが、とシエルは思案する。騒がしい雨音と波立つ心。果たして、集中などできるだろうか。
「朝食後にミントティーでもお淹れ致しましょうか」
セバスチャンの言葉に、シエルはチラリと視線を投げると、執事は音がする程ニッコリと微笑んだ。
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