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温泉で筋肉の疲れをゆっくり取って、勇利とヴィクトルが居間に入ると、母親が待ってましたとばかりに夕飯を運んできてくれる。
「アリガトウゴザイマス」
目の前にドンと置かれたカツ丼大盛りに、ヴィクトルは目を輝かせた。ぷるぷるの半熟玉子が絡み、燦然と輝くカツの魅惑的な香りに、勇利は大きく息を吸い込んだ。その芳しい匂いだけでも、胸がいっぱいになりそうだ。それ程までに、勇利はカツ丼に飢えていた。だが、今日もそれは食べられない。いや、と勇利は皿いっぱいのブロッコリーともやしに、箸を伸ばした。
「イッタダキマァス」
ヴィクトルは行儀良く両手を合わせると、さっそく箸を手に取った。あぁ、と勇利はヴィクトルの箸先を目で追いかける。あの箸が、とろとろ玉子が絡んだカツの真ん中を摘み上げ、勇利の皿の上に置いてくれるのだ。想像するだけで、溜息が落ちる。
だが、ヴィクトルは一番端の一切れを摘まむと、そのまま自らの口へと運んだ。
「フクースナー!」
蕩ける笑みを浮かべて、ヴィクトルは感嘆の声を漏らした。そしてそのまま、玉子と割り下に濡れたご飯をかっ込む。はふはふ、とその熱さと美味しさに幸せの吐息を漏らし、ヴィクトルはカツ丼をほお張った。唖然と見つめる勇利の視線など気付くことなく、カツ丼を堪能している。
「あー・・・・ヴィクトル・・・・」
「ん?ユウリ、どうしたの?」
改まって声を掛ける勇利に、ヴィクトルは丼を抱えたまま、目を丸くして首を傾げる。あぁ、と勇利は悲鳴を漏らした。そう、ヴィクトルのその表情に、覚えがあった。温泉 on ICEの直前、ユーリと勇利のどちらか勝った方の望みを聞いてくれるんだよね、と念を押した時の顔。きれいサッパリ忘れました、いやそもそもそんな約束したっけ?という、いっそ清々しいくらい薄情なリアクションだ。冗談じゃない、と勇利は恐る恐る口を開いた。
「もしかして・・・忘れちゃった?」
上目使いで尋ねる勇利に、ヴィクトルは傾げた首を反対に倒す。丼をテーブルに置いて、小さく唸って見せる。
「カツ丼、一切れを分けてくれるって・・・」
約束したのに、と勇利は声を上げた。たった一切れでも、ヴィクトルが自ら、勇利に分け与えると言ってくれたのに。酷いぬか喜びに、勇利は手が白くなるまで箸を握り締めた。顔を伏せると、肩がブルブルと震える。酷いよ、と呟く勇利に、ヴィクトルは困ったように眉根を寄せた。そして、俯く勇利に手を伸ばす。
「・・・ゴメン、悪ふざけが過ぎたね」
ぽん、と勇利の肩に手を載せ、ヴィクトルは殊勝な声で謝罪の言葉を口にする。勇利が顔を上げると、そこには見たこともないくらい情けない顔をしたリビングレジェンドがいた。そして勇利と視線が合うと、ふわりと花が綻ぶように柔らかな笑みを浮かべる。
「俺がユウリとの約束を、忘れる訳ないじゃないか」
そう、忘れる筈もない。
「・・・ヴィクトル?」
その声は、カツ丼一切れの約束よりも、もっと何か大事なことを言っているようで、勇利は自分の胸の奥を鷲掴みにされた気分だ。だが呆然とする勇利に、ヴィクトルはいつもの見慣れた笑顔を閃かせた。
「じゃぁ、約束の一切れだよ」
箸を取り、ヴィクトルは玉子の絡んだ一番大きな一切れを摘み上げた。そして、
「ユウリ、あ〜ん」
器用にカツを掴んだ箸を、ズイと勇利の口元に運ぶ。
「ヴィっ・・・ヴィクトル!」
何考えてるの!と叫ぶ勇利に、ヴィクトルは悪びれることなく笑顔で答える。
「こうやって食べると、もっと美味しくなるんでしょ?」
「・・・それ、何情報?」
力なく項垂れる勇利に、ヴィクトルは嬉々として口を開いた。
「長浜ラーメン食べに行った時に、教えて貰ったんだよ」
確か、と勇利は小さく唸った。あの日のヴィクトルは、随分遅くまで飲んでいて、帰ってきたのは朝方だった。なるほど、と勇利は肩を竦めた。きっとどこかの飲み屋で目にして、身振り手振りで周囲に説明を求めたに違いない。胸を張って見せるヴィクトルに、勇利は冷静に向き直った。
「そんなことしただけで、劇的に味が変わる訳ないでしょ」
この食べさせ合う行為は、ラブラブカップルがするからこそ、どんな味気ない料理も愛のパワーで美味しく感じられるという、大いなる気のせいのなせる技なのだ。それを、ただの師弟関係にしかない自分とヴィクトルが真似して、何が変わるというのか。勇利は、ここに置いて、とばかりに自らの皿を押しやった。だがヴィクトルは、顔一杯に不満を滲ませる。
「そんなの普通すぎて、ツマラナイよ〜」
「カツ丼シェアするのに、面白さなんていらないって」
駄々っ子に言い聞かせるように、勇利はヴィクトルの瞳を見据えた。しかし、それぐらいでヴィクトルが引き下がる筈もない。不満顔から笑顔へと表情を切り替え、箸で摘まんだカツを勇利の口元へ無言のまま差し出した。
「え〜・・・」
笑顔の圧力に、勇利は眉根を寄せた。ただニコニコと微笑まれているだけなのに、従わざるを得ないような空気を作るこの迫力は、何だと言うのか。でも、と勇利は膝の上で拳を握り締めた。どうすれば、そんな仲睦まじい恋人同士がするようなことが、躊躇いなくできるだろうか。しかも、と勇利は唇の裏を噛む。相手は、ピチットが勝手に初恋の人と称した、ヴィクトル・ニキフォロフだ。ありとあらゆる意味で、できるわけがない。
「ユウリ?いらないの?」
口を開こうとしない勇利に、ヴィクトルは痺れを切らしたように声を掛けた。
「そんなこと・・・」
その声に、勇利は背筋を正した。せっかくのカツ丼をいらないなど、口が裂けても言える訳がない。勇利のとってのカツ丼は、正常な判断を狂わせる魔性の食べ物。たった一切れとは言え、それは変わらない。そう、と勇利は喉を鳴らした。カツ丼を前に、理性など紙も同然。何より、このまま拒否し続けて、ヴィクトルの気が変ってしまう方が困る。勇利は意を決すると、目を閉じた。そして、ぱかり、と口を開く。この瞬間、家族が居間に入ってきませんように、と祈りながら。
「・・・わぉ・・・」
カツ丼を求め、口を開いた勇利の表情に、ヴィクトルは思わず声を漏らした。顔を真っ赤に染め、眼鏡越しの睫毛は緊張の為か震えている。濡れた舌を覗かせ、まるで濃厚なキスを待っているような勇利の顔。知らずに喉が上下する。これで、とヴィクトルは息を漏らした。エロスなど理解不能、と言ってのけるのだから始末に悪い。だからと言って、今の顔がまさにエロスだ、などと指摘しようものなら、見ているこちらが哀れになるくらい、狼狽するに決まっている。勇利は、成人男性とは思えないくらい、シャイでピュアなのだ。そして下手に突こうものなら、臍を曲げてしまうことは実証済み。だから、とヴィクトルは勇利の口にカツを運んだ。
「あ〜ん・・・・」
「あ・・・・〜ん」
ヴィクトルの声に釣られて、声が漏れる。同時に、口の中に甘辛な割り下とカツの絶妙な匂いが広がり、勇利はそのままパクンとかぶりついた。
「ん〜!」
久々に味わう大好物の味に、感嘆の声が出てしまう。そのままモグモグと咀嚼し、名残惜しさを覚えながらゆっくりと飲み込んだ。
「はぁ・・・・うまかぁぁぁ・・・」
頬を押さえて、勇利はうっとりと呟いた。しっとりと割り下に濡れながら、僅かに残るサクサク感。噛むと肉汁が溢れ、脂身の甘さと交じり合って、口いっぱいに広がる。その幸福感を、蕩けた玉子が更に高める。あぁ、と勇利は吐息を漏らした。カツ丼の美味しさは、これだけじゃない。ユラリと上げた視線の先に、ヴィクトルが抱える丼があった。
「ヴィクトルぅ・・・少しで良いから、ご飯もちょうだい・・・」
熱に浮かされたような目でヴィクトルを見つめ、勇利はご飯をねだる。
「・・・ユウリ、今自分がどんな顔してるか、分かってる?」
う〜ん、とヴィクトルは唸った。勇利が、自分にとってのエロスはカツ丼、と言い出した時は、考えすぎて煮詰まった結果だと思っていたが、どうやら真実だったようだ。そう、正確な判断を失い、本能が求めるままにおねだりまでする始末。ヴィクトルは、勇利の頬に指を滑らせた。
「そんな顔でおねだりするなんて、悪い子だね」
「・・・ヴィクトル、お願い・・・」
はぁ、とヴィクトルは大きく息を吐き出した。これで本当に、エロスの解釈に悩んでいた、と言うのか。今にして思えば、悪い冗談にしか聞こえない。それとも、とヴィクトルは器用に箸でご飯を掬い上げる。日々、自分を誘惑するように、と練習させている弊害なのだろうか。
「少しだけだよ?」
寛子は、自分のことを厳しいコーチだと言ったが、とんでもない。自分は、これ以上なく勇利に甘い。そうでなければ、と懐かしい記憶と共に、ご飯を乗せた箸を勇利に向かって差し出した。
「あ〜ん・・・」
自らがねだっただけあって、今度は勇利に躊躇いはなかった。自ら声を出しながら、箸を銜える。ぺろり、と赤い舌で唇を舐めて、勇利はにっこりと笑って見せた。
「美味しかった・・・」
その微笑みは、まるで花が咲くように穢れなく、エロスの欠片もなかった。そのギャップに、ヴィクトルは目を細めた。
「・・・俺からしたら、勇利の方がよっぽどびっくり箱みたいだよ」
黙々とブロッコリーを片付け始めた勇利を見詰めながら、ヴィクトルは肩を竦めて呟いた。
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