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今年のサンクトペテルブルグは暖かいよ、とヴィクトルは言っていたが、比較的温暖な地域で生まれ育った勇利には、寒いことには変わりなかった。日本出発前に買ったダウンコートの前を掻き集め、マフラーにすっぽりと顔を埋める。
「うぅ・・・寒かぁ・・・」
どんよりとした空を見上げ、勇利は白い息を零した。確か、ユーリが言っていた。今夜は雪になるだろう、と。今にも純白の欠片が落ちてきそうな空を見上げ、勇利は呟いた。
「ヴィクトル・・・早く帰ってこんかねぇ・・・」
全日本選手権を終え、正月を長谷津で過ごした勇利は、現役復帰を果たしながら、コーチ業も続けるヴィクトルの指導を受ける為、ホームをサンクトペテルブルグに移した。当初は、下宿先を探すつもりでいた勇利だったが、一ヶ月後には四大陸選手権が控えていた為、取り急ぎヴィクトルの立派な家に居候することになったのだった。
だが、と勇利は視線を彷徨わせる。居候と言うよりは、同棲という単語が正しい関係になった二人。毎日肩を並べてリンクに向かい、帰りは夕飯の買い物をしにスーパーに寄り、夜に紛れて手をつないで帰ることもしばしば。更に、休みの前の日には、求められるままに深く愛を確かめ合うなど、甘い日々を送っていた。
果たして、と勇利は密かに溜息を零す。今更下宿先を探すことなど、できるのだろうか。当たり前のように同じベッドで眠り、ヴィクトルの温もりを感じない瞬間などない日々が当然になった自分に、一人で夜を過ごすことができるのだろうか。
そんなヴィクトルにも言えない胸の内を抱えたある日、明日は休みだし久々に外食でも、と話しながらチムピオーンスポーツセンターを出た瞬間、ヴィクトルの名を呼ぶ声がした。
「ニキフォロフ選手、お話宜しいですか?」
手には、ボイスレコーダー。雑誌記者だろうか、勇利とヴィクトルの前に走り寄ると、ズイと名刺を突き出した。
「ん〜、突撃取材ってヤツかな?」
ヴィクトルは自らの唇に人差し指を押し当てて、差し出された名刺を一瞥した。
「えぇ、突然のコーチ業転身から現役復帰に至るまでのお話を聞かせて頂ければ・・・」
雑誌記者はチラリと、ヴィクトルの横で困惑して立ち尽くしている勇利を見る。はぁ、とヴィクトルは白い息を落とした。
その話なら、テレビ取材にも応じたし、記者会見も開いた。つまり、とヴィクトルは記者を見た。彼が聞きたいのは、自分と勝生勇利の関係について、だ。そう、彼が聞きたい、と言った話をするのなら、どうしても勇利の話は外せない。そして、そこにあることないこと書こう、と目論むのがゴシップ誌。それに、とヴィクトルは僅かに眉尻を吊り上げる。新聞や一般誌の取材なら、マネジメント会社やスケート連盟を通して、申し込みが来る筈である。そう、本来なら正規ルートを取らないパパラッチに、対応してやる義務はない。それでも、無碍に扱って嘘八百を並べ立てられては、堪らない。自分のことなら、昔から面白おかしく書かれてきたし、ヤコフもファンも気にしないだろう。だが、勇利は違う。勇利は一度だってゴシップ誌に名前が挙がったことなどなかったし、何より彼には心から心配する家族がいる。
「パーパヤマーマはもちろん、マリやミナコに顔向けできないようなこと、できないよね」
勇利を守れるのは、このロシアには自分しかいない。だから、とヴィクトルは今にも雪が降りそうな空を見上げた。
「ユウリは、先に帰ってて。俺は、この記者さんと話してから帰るから」
「・・・分かった・・・」
勇利は、素直に頷いた。記者が取材したいのは、選手としてのヴィクトル・ニキフォロフ。ニキフォロフ選手、と呼び掛けたのがその証拠。なれば、自分がいては邪魔だろう。勇利が傍らにいる時のヴィクトルは、選手ではなくコーチなのだから。
「失礼します」
記者に挨拶して、勇利はその横をすり抜ける。本当は一人歩きすらさせたくないんだけど、とヴィクトルは口の中で呟いて、笑顔の仮面を張り付けた。
「じゃぁ、場所を変えようか」
ヴィクトルと別れて、勇利は帰り道を急いだ。
「そっか・・・取材・・・何時に終わるか分からないもんなぁ・・・」
外食は無理だな、と勇利は小さく息を吐き出した。ならば、適当に何か作るか。スーパーに寄れば良いのだろうが、何しろこの天気だ。朝に比べて、明らかに気温が下がっている。ユーリの話は、どうやら本当らしい。
「冷蔵庫の中にあるのは・・・」
確かまだ卵があった筈、と勇利は卵料理のレパートリーを思い出しつつ、雪が降りだす前に家に急いだ。
だが、玄関のドアノブに手を掛けた勇利は、声を漏らした。
「あ」
ガチャガチャ、と無慈悲な音が響き、勇利は思い出した。家の鍵を、自分は持っていなかった。
「そうだった・・・・」
一緒に住もう、と言ってはくれたが、合鍵は渡されていなかったのだ。常に行動を共にしていることもあり、鍵のことなどすっかり意識から抜け落ちていた。あぁ、と勇利は膝から崩れ落ちた。合鍵を貰えていない事実よりも、この寒空の下でヴィクトルが帰ってくるのを、じっと待ち続けねばならない絶望が、勇利を打ちのめした。
「電話する訳にもいかんし・・・」
電話したところで、取材の最中に取って貰える筈がない。勇利は玄関ポーチに座り込むと、曇天の空に白い息を吐き出した。
マフラーを引き上げ、ダウンコートの前を掻き寄せて、勇利は少しでも体温の低下を防ぐように膝を抱えた。ヴィクトルが帰ってくる気配はない。
「ヴィクトル・・・早く帰ってこんねぇ・・・・」
寒い、と勇利は感覚のなくなった指先に息を吹き掛け、暖を取る。だが、それを上回る冷たい風が、温まる隙も与えず体温を奪っていく。
「うぅ・・・寒かぁ・・・・」
零れる言葉にすら、体が震える。勇利は手持無沙汰を解消しようと、ポケットからスマホを取り出した。だが、感覚の失せた指は上手く動かず、派手な音を立てて滑り落ちてしまう。
「あ・・・」
しまった、と勇利が腰を浮かせた時、黒いスマホ画面に白く小さなカケラが舞い落ちた。それは、勇利がスマホを取り上げるより早く解け、ただの水滴へと変わってしまう。だが、と勇利が顔を上げると、空からハラハラと無数の雪が降り注ぐ。
「雪だぁ・・・」
ユーリの言葉通り、サラサラと粉雪は風に舞ながら、勇利の頭や肩に降り積もり、世界を白く染め上げる。その積もるスピードに驚愕しながら、勇利はふと思い至った。自分は、この雪の降り積もる中、いつ帰るともしれないヴィクトルを、待ち続けなければならないのだ。
「ヴィクトル〜。はよ帰ってこんね〜」
このまま待ち続けたら、きっと自分は雪像になってしまう。吹き込んでくる雪を払いながら、勇利は曇る眼鏡を外した。
コーヒーが運ばれてくると、さっそく、と記者はボイスレコーダーをテーブルに置いた。ヴィクトルと記者が選んだ喫茶店は、客はまばらで、聞かれたくない話をするにはお誂え向きだった。ヴィクトルは笑顔の仮面を張り付けたまま、熱いコーヒーで唇を濡らす。
「カツキ選手と一緒にお住まいなんですね」
そらきた、とヴィクトルは傾けたカップに隠れて、吐き捨てた。ヴィクトルはカップをソーサに戻して、形ばかりニッコリとしてみせる。
「あぁそうだね。ユウリは俺の家に下宿しているよ。でも、俺の回りでは良く聞く話だし、何を不思議に思っているのか分からないな」
「コーチと生徒が一緒に住むことが?」
もちろん、記者も引き下がらない。ヴィクトルは焦ることなく、鷹揚に頷いた。
「他のスポーツは知らないけどね。実際、俺もヤコフの家に下宿してたし、ユリオ・・・じゃなくて、後輩のユーリ・プリセツキーなんかは、振付師の家に住み込みで、レッスンを受けているらしいよ」
徹底的に管理し、芸術を作り上げようとするリリアならではの手法だ。幸いヴィクトルは、彼女の徹底指導のお世話になったことはないが。
「つまり、カツキ選手にも毎晩レッスンを?」
「・・・毎晩・・・」
随分意図的な質問だな、とヴィクトルは肩を竦めた。気を抜けば、罠に嵌まってしまう。慎重に、とヴィクトルは自らに言い聞かせ、口を開いた。
「いや、俺はレッスンを付ける目的で、ユウリと一緒に住んでる訳じゃないよ」
そう、この言葉に嘘はない。
「では・・・・」
「ユウリは、シーズンの途中で拠点を日本からロシアに移したからね。メンタルに影響が出ないか、心配しているんだ」
何しろ勇利のメンタルは、ガラス細工のように繊細なのだ。それに、とヴィクトルはカップに手を伸ばした。勇利を一人にしておくとロクなことにならないことを、ヴィクトルは痛い程理解していた。もう二度と、あんなことは御免である。
「・・・メンタル、ですか・・・」
面白くなさそうな反応を返す記者に、ヴィクトルはコーヒーで唇を濡らして頷いた。
「選手のメンタルをケアするのも、コーチの大切な務めだよ」
「なるほど・・・コーチと務めと言えば、カツキ選手のエロスの手解きも?」
ははは、とヴィクトルは思わず乾いた笑いを漏らした。彼は、どうしても勇利と自分の関係を、下世話な方向に向けたいらしい。結論ありきのゴシップ誌らしい、と称賛すべきなのだろうか。
「まさか。俺が何かしただけであれ程の演技ができるなら、ユウリは苦労しなかったよ」
勇利の努力と苦悩を、安っぽい話にされては堪らない。あの切なげで妖艶な舞は、勇利が胸を痛め、考え抜いて会得した物だ。それを下らない妄想の産物にすることは、何人たりとも許されない。
「俺たちの取材をするのなら、貴方はフィギュアスケートについて、もう少し勉強してくると良いよ」
きっと深みのある記事が書ける、とヴィクトルはカップを傾けた。その時だ、パチパチと何かが大きな窓に当たる音がした。何事だろう、と数少ない客たちが目を向ける。ヴィクトルも、彼らに釣られるように窓の外に目を凝らし、そして呟いた。
「遂に降ってきたか・・・・」
今年は、例年に比べて暖かいせいか、雪が少なかった。雪の多くない場所で生まれ育った勇利を思えば、このまま春を迎えてしまえ、と思っていたのだが、そうは問屋が卸さないらしい。ヴィクトルは肩を竦めると、カップを煽った。温くなったコーヒーを飲み干し、立ち上がる。
「では、道路が雪で覆われてしまう前に、失礼するよ」
ヴィクトルは伝票を引き寄せ、記者が何か言う前に踵を返した。パパラッチ相手に、随分と親切丁寧に対応したのではないだろうか。これで非友好的な記事が出た暁には、ありとあらゆる対抗手段を取らせて貰おう。
「それぐらいの覚悟、できてるよね」
ふふふ、と世界が凍りつきそうな程冷たい声で笑って、ヴィクトルは喫茶店を出た。刹那、雪交じりの風が、プラチナブロンドを巻き上げた。
「さむっ・・・・ユウリを先に帰したのは、正解だったな」
こんな寒風が吹き付ける中を歩かせるなんて、出来る筈がない。ヴィクトルは体温を奪われまい、とコートのポケットに手を入れた。同時に、その指先に冷たく硬い物が触れた。
「何だ?」
嫌な予感を覚えつつ、ヴィクトルはそっとポケットの中身を引っ張り出した。そして、街灯の光をキラリと返すそれに、音を立てて血の気が引く。
「鍵がここにある、と言うことは・・・・」
ヴィクトルは、勇利に合鍵を渡していなかった。忙しいことも理由の一つだが、何より常に一緒にいる心地良さに、鍵のことをすっかり忘れていたのだ。それどころか、先に帰るように言いながら、鍵を渡すことさえ失念した。記者の存在に気を取られていた、なんて言い訳にもならない。否、今はそれを悔いている場合ではない。
「ユウリ!」
ヴィクトルは半ば強引にタクシーを止めると、飛び乗るなり、急ぎ出すように運転手に声を掛けた。この雪が降りしきる中、勇利はどうしているのだろう。家に入ることもできずに、ただ自分を待ち続けているのだろうか。
「電話でもしてくれれば・・・・」
いや、とヴィクトルは首を振る。きっと勇利は、取材中だから、と電話することを遠慮したに違いない。あぁ、とヴィクトルはプラチナブロンドを掻き毟った。例え一瞬でも、勇利を一人にしてはいけないのだ。自分は、それでどれだけ痛い目を見れば良いのだろうか。
「ここにきて風邪とか・・・冗談じゃない」
自分の怠慢で生徒に風邪を引かせたなんてヤコフに知れたら、どれ程怒鳴られるのだろう。いや、とヴィクトルは強くなる雪に拳を握り締めた。ヤコフの雷なら慣れている。それよりも、国際大会を控えながら、数日寝込んで練習できないとなった場合、勇利はどんな無茶をするのだろうか。正直、そっちの方が数千倍怖い。ヴィクトルは運転席のヘッドレストを掴んだ。
「すいません、急いでください」
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