一つ間の空いたシャワーブースから響いていた水音が止まった。
「先出てるぞ」
濡れた長い黒髪を背中に無造作に垂らして、アルトはミハエルに一声掛けると、シャワー室を後にする。音を立てて閉まる扉に、ミハエルは自嘲気味に笑うとシャワーの水温を一気に下げた。最早水としか呼べぬそれを浴びながら、ミハエルは一人取り残されたシャワー室の天井を仰いだ。
「ホント、自覚ないんだから・・・・・」
困ったものだ、と呟いて、ミハエルはワシワシと髪を掻き乱す。
濡れて一層深みと艶を帯びる黒髪と、白い肩のコントラスト。背中を覆おう髪の裾から覗く、細く引き締まった腰と脚へと続くライン。そして、温まって上気した頬。男女問わず魅了した過去を髣髴とさせるアルトの姿は、見る者によっては甘い毒だった。目を奪われ、時には心も奪われる。だが、本人にその自覚はない。むしろ、無害だと思い込んでいるのだ。確かに、ミハエルやオズマに匹敵するパイロットとなったアルトは、立派な戦闘機乗りだし戦友だ。だが、その容姿はもちろん匂い立つ色香は、戦友だと分かっていても惑わされる者が続出しているのも事実だ。実際、ボビーとは別の意味でアルトの男性シャワー室の使用を考えて欲しい、とオズマに直談判した人間がいるという話だ。無論、多くの乗務員を惑わしているなどと言う自覚のないアルトにそんな話を切り出せるはずもなく、今やうっかりアルトとシャワーの時間が一緒になった連中は最後に水を被ることが日課になっている。
S.M.Sでさえそんな状況なのだ。ギラギラした青春真っ只中の学生たちがアルトの色気に当てられて、何の間違いも起きないと誰が断言できる。
そんな訳で実習終了後は、ミハエルはリーダーの権限を最大限フル活用してアルトとルカに雑用や居残り練習を言いつけて、少しでも他の生徒達とシャワーの時間を遅らせる措置を取っていた。
と、言うのは建て前で。
アルトの白い肌を自分以外の人間に見せたくないのが本音。もちろんルカにだって見せたくない。だが、うっかりすると襲い掛かりそうになる自分への牽制として、特別に例外として認めていた。恐らく、ルカもその辺りは承知している筈である。一見無害そうに見えるルカだが、その実自分以上に強かだとミハエルは思っている。そうでなければ、いくら優秀とはいえ、あの年齢でL.A.Iの技術顧問はこなせない。
「さて、そろそろ良いかな」
ミハエルはシャワーを止めると、冷え切った体にバスタオルを巻き付けた。
更衣室に入ると、アルトは制服のスラックスを穿いて、肩にタオルを引っ掛けただけの姿で髪を乾かしていた。細い黒絹の髪が、ドライヤーの温風にサラサラと棚引いている。先に上がっていたルカが、目のやり場に困る、と言いたげに無言でミハエルに訴える。無知は罪、とはよく言った。ミハエルは深いため息を吐き出すと、呆れた表情でアルトを見やる。
「姫、せめてタンクトップとか着たらどうだ?」
うっかりすればアルトのその姿は、女性がタオルで乳房だけを隠しているようにも見える。あぁ、とミハエルは遠い記憶を思い出す。ドキドキしながら見たグラビアには、そんな一枚があった。本当、男のクセに男の性が理解できないお姫様である。
「髪が乾いたら着るよ」
ミハエルの声にどこか上の空で答えて、アルトは振り返りもせず、髪に温風を当てながら手櫛で梳く。ミハエルとルカは目を合わせると、分かってない、と互いに肩を竦めた。ミハエルやルカが、他の生徒たちがアルトに対して劣情を抱いている、と主張してもアルが認めないことは、火を見るより明らかだ。更に言えば、そのまま不毛な口論に発展するだろうことも、決まっている未来だ。ミハエルは、半開きのアルトのロッカーを漁ると、タンクトップを引きずり出した。
「もう十分乾いただろう?」
問答無用でタンクトップを放り投げる。鏡越しにヒラヒラと宙を舞う自分のタックトップに、アルトは慌てて反応した。ドライヤーを持ったまま、どうにか手を伸ばしてキャッチする。アルトはミハエルの行動に不審そうな目を向けて、少しだけ唇を尖らせた。
「別に風邪なんかひかねぇし」
どうせミハエルのことだ、軍人として体調管理に気を使え、とでも言いたいのだろう。あいにく、とアルトはタンクトップに首を通す。髪を乾かしている間半裸でいるぐらいで風邪をひく程、ヤワな体ではない。
「アルト先輩って、時々凄いズレてますよね」
芸能科にいた頃は男性からのラヴレターを貰っていたというのに、この自覚のなさは天然を通り越している。ルカは諦めとも感嘆ともつかぬ呟きを落とした。航宙科ではルカとミハエルが鉄壁のディフェンスを築いているが、芸能科ではどうだったのだろう。紳士協定か不可侵協定で危ういバランスでも保っていたのか。
「姫が鈍感じゃ、抜け駆けのしようがないだけかもな」
ミハエルは肩を聳やかして、まるで他人事のように呟いた。否、その鈍感と言うアルト自身の本能的防御のお陰で苦労したのは、他でもないミハエル本人だった。撃墜王の名を欲しいままにしていたミハエルだからこそ、アルトを落とせたのだとミハエルは思っている。
「誰が鈍感だって?」
ロッカーの端に引っ掛けていた組紐を唇に挟んで、アルトはミハエルを睨み付けた。自分が鈍いのではないミハエルが聡いだけだ、とアルトは思っている。もしくは、考え過ぎ。舞台を降りた自分は凡人と変わらない。自分が人目を引くのは、そうあるように演じていただけであって、限定的な物だ。なのに、視線を集めていると主張するミハエルはどうかしている。アルトに求愛するような物好きは、ミハエルぐらいなものだ。
アルトは髪を纏め、高い位置で括ると、フンと鼻を鳴らした。
「そうだアルト。今日、マンゴープリン食って帰らないか?約束してただろう」
半ば強引にアルトの機嫌を取るように、ミハエルは話題を変えた。この件に関して、アルトとは平行線を辿ることが当たり前なのだ。本当は、もう少し自分の容姿や色気に自覚を持って貰いたいものだが、その無頓着ぶりも可愛いので、とりあえず自分が目を光らせることで一応の決着としている。今更蒸し返しても詮無いこと。
「覚えてたのか?」
先日ミハエルの見舞いに行った時、退院したら娘々のマンゴープリンを食べに行こう、と約束していたのだ。だが、実際はバタバタしていてミハエルの記憶に残っていない物だとばかり思っていた。ましてや、マンゴープリンを食べたいのはアルトであって、ミハエルはあくまでその付き合いでしかない。なのに、とアルトは悲しそうに眉間を寄せた。
「今日は、ちょっと用事があるんだ・・・・・」
注文していた物が届いた、と連絡が入っていたのだ。今日を逃せば、受け取りに行く時間を見つけるのは難しいだろう。何より、使用する日が決まっているのだ。準備期間を考えると、一秒のロスも惜しい。
「買い物か?だったら付き合うぜ」
優しく笑うミハエルを振り切るように、アルトはYシャツを羽織るとボタンを留めながら首を振った。
「いや、大丈夫だから。せっかくだから、ルカと行ってくればいいんじゃないか」
確か、今日はナナセがシフトに入っていると言っていた。チラリと視線をルカに向ければ、大きな瞳がキラキラと輝いている。
「しょうがない。ルカ、アルトの代わりにマンゴープリン食いに行くか?」
姫に振られたぁ、と笑うミハエルに、アルトの胸がズキリと痛む。ネクタイを締める手を止めて、アルトはぎゅっとシャツの裾を握り締めた。
「大丈夫だよ、そんなカオしなくてもさ。ちゃんとお土産買ってきてやるから」
蜂蜜みたいな、甘く蕩けそうなキラキラした笑顔。きっと二人っきりなら、ミハエルはアルトの頭をポンポンと優しく撫でてくれただろう。胸が空くような、そんな気分だ。
「じゃぁ、ちゃっちゃと着替えて行きますか」
ミハエルはアルトを深く追求することなく、濡れた髪を乾かし始めた。ミハエルはアルトに心地良い距離で接してくれる。土足で踏みにじるような詮索をすることなく、それでいて離れすぎない。肩が触れ合うような、そんな距離。アルトは眩しそうに、ミハエルの濡れた広い背中を見詰めた。アルトが欲しても、決して手に入らない鋼のような体。妬ましい反面、安心感を覚える。アルトは形の良い顎に指を当てて少しだけ思案すると、そっと撫でるように手を伸ばした。
「っ・・・・・姫・・・・・?」
ヒタリ、と細い指が背中に押し当てられる。なぞるような指の動きに、せっかく水を被って鎮めた熱が頭を擡げそうになる。視界に映るルカの姿に、どうにか衝動を押さえ付けると、ミハエルは首を巡らせた。
「何してるんだ?」
アルトはまるでミハエルの背中を測るように、手を閉じたり開いたりを繰り返す。そして、そのままブツブツと何か呟きながら指を折る。
「まぁ、何とかなるか」
一体、何が何とかなると言うのか。追求したい気持ちを飲み込んで、ミハエルは目下の悩みを解消すべく口を開いた。
「そろそろ服を着たいなぁ、なんて思ってるんだけど。姫?見惚れちゃった?」
スッと目を細めて笑うと、ボンと音がしそうな勢いでアルトの顔が真っ赤に染まった。
「っンなわけあるか!自惚れるのも大概にしやがれッ」
指摘された気恥ずかしさを誤魔化すように、アルトは思いっきりミハエルの背中を叩いた。広い背中に手形紅葉を刻んで、アルトはそのまま鞄を引っ掴むと逃げるように更衣室を横切った。そして、ミハエルを睨みつけると捨て台詞と呼ぶには随分可愛らしい言葉を放る。
「土産、忘れるなよ!」
射るように指差して、アルトは脱兎の如く踵を返して扉の向こうに消えて行った。
|