ラブミーギミー

 

 

 今更キスシーンなど見た所で、動揺などする筈もない。そう、とミハエルは拳を握った。自分はそれ以上のことを、名も知らぬ女性とたった一夜の間に幾度も交わすのだ。だから、とミハエルは、焼けた砂浜で膝を抱えて座り込むランカの遥か後方で、海辺に佇むコテージで繰り広げられる、映画のワンシーンのような光景を見詰めながら、名前も知らぬ胸のざわめきから目を逸らした。

◆◆◆◆◆◆

 昼休みの喧噪の中、一際大きく響くバタバタという足音に、ミハエルはゆっくりと首を巡らせた。エネルギーの有り余る高校生。廊下や教室で大暴れし、発散したくなる気持ちも理解できる。だが、聞こえて来る足音は、まるで命を狙われているような、妙な緊迫感を帯びている。何事か、とミハエルが眼鏡のブリッジを中指で押し上げると同時に、教室の後ろのドアが弾けるように開いた。

「・・・・姫?」

 確か、早々に昼食を切り上げて、図書室に行った筈。来週頭に提出の課題が手付かずだと、青い顔をして。テーマすら決まってないから図書室へ、と言っていたのに、もうネタが見つかったと言うのか。さすが、と皮肉の一つも言ってやろう、とミハエルが唇を歪めた。だが、その後のアルトの行動に、ミハエルは言葉を失った。転がるように教室に雪崩れ込んできたアルトは、ミハエルの近くまで走り寄ったかと思うと、そのまま隣の机の下に潜り込んだのだ。

「え?何?・・・姫、避難訓練?」

「姫って・・・・ぁ・・・・」

 いつものセリフを叫びそうになって、アルトは両手で自らの唇を押さえた。そして、強く眦を吊り上げてミハエルを睨み付けると、人差し指を自らの唇の前に立てる。どうやら、黙っていろ、と言いたいらしい。一体、とミハエルが首を傾げていると、再び扉が爆ぜるような勢いで開いた。その大きな音に何事かと静まり返る教室に、スロトロベリーブロンドを揺らして、シェリルがニュっと顔を覗かせた。その後ろから、ひょこん、と翡翠色の髪を弾ませてランカも顔を出す。

「・・・・シェリル?」

 どうした?と声を掛けるクラスメイトの声も聞こえないのか、シェリルは険しい視線で教室内を舐めるように見回した。それは、索敵レーダーもかくや、という鋭さだ。ミハエルは僅かに視線を下げると、なるほど、と口の中で呟いた。歌姫たちの狙いは、アルトらしい。ミハエルは肩を竦めた。彼女たちと仲良くお喋りできるだけでも、嫉妬と羨望の視線を独占できると言うのに、追いかけられるなんて、どんなパラダイスだろうか。それを逃げるなど、罰当たりにも程がある。全銀河を敵に回すには、充分な行為だ。いっそ売ってやろうか、とニヤリと唇の端を歪ませた。だが、口を開こうとするミハエルの視界の端に、手を合わせるアルトが映る。

「頼む」

 そう訴える琥珀色の瞳に、ミハエルは息を吐き出した。そこまで言うならしょうがない、とミハエルは視線を窓の外に移し、歌姫たちが諦めるまで知らぬ振りをすることに決めた。机に肘を突いて、手の甲に頬を載せる。その横顔を見る限り、隣の机の下にアルトが隠れているなど、露ほどにも感じさせない。アルトは、小さく胸を撫で下ろした。

「どうです?シェリルさん?」

 アルト程の美貌の持ち主ならば、隠れていてもすぐに分かる筈である。あの美しく艶やかな髪。白く凛とした横顔。アルト本人は否定するだろうが、それでもその生来のオーラは隠せない。だからこそ教室に逃げ込んだところで、すぐに見つかると踏んでいたのだが。

「いないわね・・・・」

 シェリルは、悔しそうに爪を噛んだ。どうやら、教室に逃げたように見せかけて、前の扉から出て行ったようだ。

「アルトのクセに生意気よ」

 シェリルは吐き捨てるように呟くと、踵を返した。

「行くわよ、ランカちゃん」

「え?あぁ、待ってくださいシェリルさん!」

 アルトが行きそうな場所は、と口にしながら、来た時と同様の勢いで歌姫二人は去って行く。その後姿を、声もなくポカンと見送るクラスメイトたち。まるで嵐が去ったような光景に、ミハエルは肩を竦めた。

「もう大丈夫だぞ」

 ミハエルの声に、アルトはゴソゴソと机の下から這い出すと、大きく息を吐き出した。

「サンキュ、助かった」

 ドッカリと疲労を滲ませながら椅子に腰掛けるアルトに、ミハエルは冷やかすように唇を歪めた。

「それで、銀河の二大歌姫から逃げ回るなんて、随分なご身分じゃないか」

 ニヤニヤ、と人の悪い笑みを浮かべるミハエルに、アルトは顔を顰めて背けた。隠れているのを黙っていてくれたのは感謝するが、冷やかされるのは御免である。

「なぁ、アルト?・・・・アルト姫」

 無視を決め込むアルトに、ミハエルはめげることなく声を掛ける。トントン、と肩を突っ突けば、艶やかな黒髪を翻しながらアルトが振り返った。

「ぅ・・・だから姫って・・・うわぁ!」

 振り向いた視界いっぱいにミハエルの顔が広がり、アルトは頬を紅潮させて慌ててミハエルの額を押しのけた。

「無駄に近ぇんだよ!」

 一気に怒りが沸き上がったか、アルトは毛を逆立てた猫のように、フーフーと肩を大きく上下させながら警戒を滲ませる。ミハエルは、小さく嘲るような笑みを零した。

「銀河の二大歌姫とキスしたんじゃないか。これぐらいの距離、騒ぐようなモンじゃないだろ?何も知らないお姫様じゃあるまいし」

 あぁアルト姫様だったな、とせせら笑えば、今度こそアルトの拳が飛んでくる。

「っ・・・・・うっせぇんだよ!」

「おっ・・・と、危ない」

 当然のようにその拳を払いのければ、アルトは更に美貌を歪めて背を向ける。だが、ミハエルはアルトの肩に手を延ばし、そのまま力任せに引き寄せた。

「で?女王様たちの要求は何だったんだよ?」

「っ・・・ミシェルには関係ねぇだろ」

 バランスを崩して椅子ごと倒れそうになりながら、アルトは毒づいた。どうにか醜態を晒さずに済んだ、と胸を撫で下ろしているアルトに、ミハエルは目を細めた。

「関係ない・・・・ねぇ。アルトが隠れてること、黙ってやってたのに?」

 へぇ、とミハエルは腕を組んで胸ポケットから携帯を取り出した。何を、と声にならなかった。ミハエルの行動の先が全く読めず、アルトはただ呆然と見ていることしかできなかった。ミハエルの長い指が、携帯のパネルを操作したかと思うと、そのまま耳に押し当てる。冷たい汗が、背中を伝う。

「お前・・・・誰に電話してるんだよ?」

 ミハエル程の男が、人と話している最中に断りもなく電話を掛けるなどという、マナーに反する行為をするわけがない。けれど、目の前のミハエルは携帯電話を耳に当てている。

「うん?姫が教室にいるって教えてやろうかと思って。もちろん、姫が俺の質問に答えてくれるなら、すぐに切るけど?」

「っ・・・・分かった、言うから!言うから切ってくれ!」

 頼む、とまで言われて、ミハエルは些か動揺しながら携帯電話を耳から離した。そして、そのままアルトの耳に近づける。携帯電話から微かに聞こえる音は、呼び出し音ではなかった。ただの時報。

「ミシェル!お前、騙したなっ!」

 掴み掛からんばかりのアルトに、ミハエルは酷薄に目尻を下げた。

「別に、俺はシェリルに掛けてるなんて、一言も言ってないぜ?勝手に早とちりしたのは姫だろう?」

 うぅ、と悔しそうに唸るアルトに、ミハエルは頬を緩めた。本当に、からかい甲斐のあるお姫様だ。ミハエルは、サラリとアルトの肩口に流れる滑らかな漆黒の髪を指に絡め、唇の端を吊り上げた。

「男に二言はないよな?アルト姫?」

 アルトはミハエルの手から引っ手繰るように髪を奪い返すと、悔しそうに眦を吊り上げる。ほら、とミハエルは喉で笑いを噛み殺す。そんな風にすぐに感情を表に出すから、簡単に付け込まれるのだ。

「それで?」

 黙り込む自分の逃げ場を塞ぐように投げられたミハエルの声に、アルトは唇の裏を噛んだ。ミハエルに相談したところで、状況が好転することはない。それでも黙秘を続ければ、男らしくない云々と好き勝手言われるだろう。アルトは大きく息を吐き出した。

「明日、シフト入ってないんだから、買い物に付き合えって・・・」

 どこからシフトが漏れているのか、とアルトは唇を尖らせる。もちろん、心当たりは一つしかない。

「何だ、そんなことか。行ってやれば良いじゃないか」

 机の下に隠れる程のことか、とミハエルは呆れを滲ませて背凭れに体重を預けた。心配をして損をした、と呟くミハエルに、アルトはシャツの裾を握り締める。

「そんなことって・・・・・こっちは課題が手付かずなんだよ・・・・・」

 もっと言うならば、課題の存在を知ったのがついさっきだったりする。随分前から出されていたらしいが、連日の訓練と出動ですっかり授業に参加していなかったようだ。それでも、週末を使えば何とかギリギリ来週頭の提出に間に合うと思っていた矢先、女王様からのご下命である。幾らシェリルからドレイ君に任命されたとは言え、こちらは成績に関わってくるのだ。テーマの選定すら済んでいないアルトに、行ってやれば、など簡単に言ってくれる。

「テーマは?」

「それ探してる途中に、図書室で捕まったんだよ」

 完全な白紙状態か、とミハエルは小さく呟いた。そして、ぼんやりと天井に目をやる。キスをしたことを弾みにして、彼女たちはより積極的に、アルトとの距離を詰めようとしているのだろう。キスをしたから、今度はデート。恋する乙女らしい、微笑ましいアタックだ。だが、とミハエルは腹を摩った。底の方から、ジワリと滲む苦い感情。それは、ミハエルが意識するより早く指先まで満たし、今更見ない振りなんてできない。ミハエルは、自嘲に唇を歪めた。

「無事に逃げ果せたとして、どこで課題をやるつもりなんだ?」

 まるで方向の違うミハエルの問いに、アルトは面食らった。一瞬、何を答えるべきか頭の中が真っ白になったが、どうにか言葉を紡ぎだす。

「どこって・・・・アパートのつもりだけど・・・・・」

 幸い、今日もシフトには入っていないのだ。こんな日のアルトは、部屋の風通しも兼ねてアパートに帰ることが多い。今回も、通例に倣って掃除で気分転換を図りつつ、アパートで一人集中して課題を片付けようと考えていたのだ。それが、何か問題なのだろうか。

「シェリルたちが押し掛けて来たら、逃げ場ないな」

「うっ・・・・」

 ミハエルの指摘に、アルトは呻いた。シフトが入っていない日のアルトの行動は、テンプレ化していると言っても過言ではない。つまり、歌姫たちでも簡単にアルトの居場所を突き止めることができるのだ。もしも、とアルトの背中に冷たい汗が滑る。歌姫たちの積極的なお誘いから逃げ回ることしかできない自分が、アパートにやってきたら何ができると言うのか。彼女たちの要求を呑む以外に、術はない。それはつまり、課題の提出を諦めるのと同義。

「じゃぁ・・・宿舎で・・・・・」

「トレーニングルームにまで強行突入するお姫様たち相手に?」

 そうだった、とアルトはミハエルの指摘に項垂れた。シェリルとランカは、自分たちのネームバリューを利用して守衛を買収した過去があるのだ。ならば、とアルトは拳を握った。一体、自分はどこで課題をやれば良いのか。公営の図書館か。だが、アパートの近くにあっただろうか。眉間に皺を寄せ、絶望したような表情を浮かべるアルトに、ミハエルは頭の後ろで手を組むと、少しだけ視線を逸らして用意していた言葉を紡ぐ。

「・・・俺のマンションに来るか?」