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ロシア時間 十二月二十四日 二十三時五十八分
バンケットの喧騒を洗い流すようにシャワーを浴びたヴィクトルは、バスローブを羽織って窓辺へと立った。大きな窓から、故郷の夜景を見下ろした。
その時、サイドテーブルに放り投げていたスマホが、着信音を響かせた。引き寄せて画面を覗き込めば、愛しい人の名前が表示されている。
「・・・ユウリ!」
ヴィクトルは嬉々として、通話口で愛弟子の名を紡いだ。
「ユウリ、優勝おめでとう」
「ヴィクトルこそ。優勝おめでとう」
選手とコーチの二足の草鞋を履くヴィクトルだが、その圧倒的な強さは一片たりとも損なわれていなかった。むしろ、選手時代よりも表現力が増した、と称賛される滑りで、伸び盛りのユーリ・プリセツキーさえも蹴散らし、絶対王者として表彰台の真ん中に立って見せたのだ。
「これで、二人でワールドに出られるね」
「・・・・そうですね・・・・」
凄味が増し、正に新生ヴィクトル・ニキフォロフと言うに相応しい演技だった、と優子が言っていたことを思い出して、勇利は期待と同時に不安を覚えていた。確かに、氷の皇帝としてリンクに立つヴィクトル・ニキフォロフを見たい、と切望したのは自分だ。だが同時に、ヴィクトルは自分が越えねばならぬ壁でもあった。
そう、コーチと選手を兼業することを、是としたヴィクトルが出した勇利への条件。それは、世界選手権五連覇という偉業を達成した自分を打倒し、同様に連覇を重ねること。その一歩を踏み出す為に、勇利は全日本選手権で優勝を果たし、代表内定を勝ち取った。だが、と勇利は唇を噛んだ。果たして、このどこにでもいるスケーターである自分が、絶対王者の連覇を阻止するなど、できるのだろうか。
「ユウリ?何でそんな沈んだ声出してるの?」
「いや・・・だって・・・」
電話の向こうで鬱々としている愛弟子に、ヴィクトルはフワリと笑った。
「この俺がコーチしてるんだよ?何を憂うことがある?」
そう、この天才と謳われる自分が、コーチに付いているのだ。例え相手があのヴィクトル・ニキフォロフでも、恐れることなど一つもない。僅かに胸を反らすヴィクトルに、勇利は小さく噴出した。
「そうだね。シーズン後半もよろしくお願いします」
電話の向こうでペコリと頭を下げた勇利が見えたようで、ヴィクトルは頬を緩めた。そして、冷たい窓ガラスに指を滑らせる。あの夜空の先に、勇利がいるのだ。そう感傷的に思うと同時に、ヴィクトルはふと首を傾げた。
「ユウリ、日本はまだ早朝じゃないか?」
時差を指折り数えれば、日本は十二月二十五日 五時五十八分。
この時期の日本は、確かまだ夜も明けていない筈である。そんな朝早く、自分のスリーピングビューティーが起きているなど、一体何があったというのか。
「確か、今日の夜がメダリストオンアイスだった筈・・・・」
合同練習があったとしても、まだ寝ていても許される時間だ。それに昨夜は、試合でヘトヘトのまま代表発表まで会場で待機を強いられ、それから夜中まで報道番組に引っ張りだこだった勇利。ネットのニュースでしか知らないが、その疲弊ぶりを考えれば、こんな早くに起きるなど異常事態だ。
「もっとゆっくり休んだ方が良い」
「うん、それは・・・・あ!」
コーチのお小言に抗弁し掛けた勇利は、何に気付いたのか、弾けるように声を上げた。何事か、と身構えるヴィクトルに、勇利は柔らかな温かい声で優しく紡ぐ。
「誕生日おめでとう、ヴィクトル」
「え?・・・あぁ、ありがとう」
勇利の突然の言葉に、ヴィクトルは面喰いつつ部屋の時計に目をやった。時刻は、十二月二十五日午前零時ジャスト。
「本当は顔を見て、おめでとうが言えたら良いんだけど・・・・」
ヴィクトルが言ってくれたように、と勇利は残念そうに呟いた。二人が現役を続ける限り、それは叶わぬ願い。それでも、とヴィクトルは目を細める。
「電話越しでも嬉しいよ」
それは、嘘偽りない思い。離れていても、すぐ傍にいる。そう感じられる、とヴィクトルは右手の薬指を唇に押し当てた。
「それで・・・ヴィクトルは、誕生日プレゼントは何が良いかな?」
「・・・あぁそうか、日本は誕生日を迎えた本人がおもてなしされるんだっけ」
ロシアでは、主役が友人知人を招いてごちそうし、日々の感謝を表すのだ。
「色々考えたんだけど、全然ピンと来なくて・・・」
練習の合間を縫って、博多にまで出てデパートを覗いてみたのだが、ヴィクトルに是非!と思えるような物を見つけられなかった。そこで勇利は、実に情けない、と自覚しつつ、本人に直接聞くことに決めたのだ。
「そうだなぁ・・・・」
欲しい物ねぇ、と呟きつつヴィクトルは唸った。自分は、国やスポンサー企業から十分な援助を受けており、特に何かを必要とはしていないのだ。服飾品も、先日バルセロナで大量購入しており、物欲はすっかりナリを潜めている。そんな状態で、リクエストを受け付けていると言われても、とヴィクトルは視線を彷徨わせた。刹那、ヴィクトルの脳裏にある単語が浮かび上がった。
「あぁ・・・それは、最高かもしれない」
「決まった?」
何が欲しいの?と急かす勇利に、ヴィクトルは唇に人差し指を押し当てて微笑んだ。
「俺、ロシアと日本の良いとこ取りをしようと思う」
「良いとこ取り?」
電話の向こうで大きく頷くヴィクトルに、勇利は目を丸くした。ヴィクトルは、一体何を思いついたと言うのか。
「そう!名付けて、ヴィクトル・ニキフォロフプレゼンツ、ハッピーマイバースデー!」
それは、親しい友人を自宅や自らが選んだレストラン等に招待する、というロシア流の誕生日をセルフプロデュースと解釈し、日本流の本人が主役となって祝われるという点に着目した、画期的なバースデープレゼント。
「そんな訳で、ユウリも協力してね」
「協力?何をすれば良いの?」
誕生日すら自らプロデュースしてしまうヴィクトルに、尊敬の溜息を吐きつつ、勇利は首を傾げた。
「詳しい話は、シーズン終わったらするよ」
ヴィクトルがセルフプロデュースし、かつ自分に協力を求めるとしたら、アイスショーでもしようと言うのか。うわぁ、と勇利は小さく悲鳴を上げた。あの憧れのヴィクトル・ニキフォロフ主催のアイスショーに招待されるなど、まるで夢のようだ。勇利は大きく頷いた。
「分かった。僕にできることだったら、何でも言って」
何でも言って、と勇利の言葉を口の中で数回繰り返し、ヴィクトルはこれ以上ない笑顔を弾けさせた。
「ユウリにそう言って貰えると嬉しいよ」
そうこれは、勇利の協力が不可欠なのだ。そして同時に、これ以上ない誕生日プレゼントとなる。
「さて、それじゃ俺はそろそろ寝ようかな」
誕生日プレゼントのおねだりも済んだし、とヴィクトルは茶目っけたっぷりに笑って見せる。
「っ・・・夜遅くに、ごめんなさい・・・・」
電話の向こうで、シュンと項垂れる勇利に、ヴィクトルは首を振る。
「ユウリに全日本のお祝いが言えて良かったよ。それに、ユウリももう少し寝た方が良い」
美しくライトアップされた中で滑るのは気持ちが良いが、それでも薄暗い中でジャンプを跳ぶ恐怖は少なからずあるのだ。睡眠不足で集中力を欠いた状態で挑み失敗すれば、怪我に繋がりかねない。
「ヴィクトル、コーチみたいなこと言ってる」
ぷふ、と噴き出す勇利に、ヴィクトルは不満げに唇を尖らせる。
「コーチみたい、じゃなくて、俺はユウリのコーチなの!」
例え、今は選手としてリンクに立ったとしても、勇利の前の自分は常にコーチなのだ。いや、とヴィクトルは自嘲を唇に浮かべた。恋人としてありたい、と思う方が強いかもしれない。
「そんな訳で、コーチ命令。寝坊しない程度にしっかり寝なさい」
「はい、コーチ」
くす、と勇利は小さく笑った。ヴィクトルも柔らかく目を細めると、低い声で囁く。
「おやすみユウリ。夢で会おうね」
「っ・・・・おやすみなさいっ!」
逃げるように通話を終わらせた勇利に、ヴィクトルは肩を竦めた。夢で良いから会いたい、というささやかな願いすら、気恥ずかしさを覚えるなんて、本当に勇利は成人しているのだろうか。
「・・・もっと恥ずかしいこと、いっぱいしてるのに」
いつまでも穢れを知らぬ乙女のようでありながら、一度スイッチが入れば、ヴィクトルが驚く程のエロスを見せる。そのギャップこそが、ユウリ・カツキの魅力でもあるのだが。
本当は、一秒だって離れていたくない。離れず傍にいて!という勇利の願いを永遠に叶えたいと思っている。それでも、とヴィクトルは大きく息を吐き出した。コーチと選手を同時にこなそうとすれば、どうしても大事な試合に帯同できない。それを悔しいと思わない訳ではない。否、この腹の内にある感情は、そんな綺麗な物じゃない。いつでも、どこでも勇利に触れていたい。時間が許す限り、抱き締めたい。
「あ〜あ、おやすみのキス・・・・したかったなぁ」
すっかり暗くなったディスプレイに、ヴィクトルは眉根を寄せて呟いた。その時だ、ディスプレイが再び輝き始めた。
「ユウリ!」
何か言い忘れたことでもあったのか、とヴィクトルの胸は期待に高鳴った。だが、表示されたのは、次々と送られてくるメッセージの通知。その全てに、誕生日おめでとうの文字が踊る。
「・・・う〜ん・・・」
ありがたいとは思うが、とヴィクトルは頭を掻いた。
「とりあえず、寝るか」
勇利と夢で会う約束をしているのだ。お礼を返信するのは明日だ、とヴィクトルはスマホをベッドに放り投げ、バスローブに手を掛けた。と、スマホが再び着信音を奏でる。今度こそ勇利かもしれない。ヴィクトルは、スマホに飛び付いた。だが、
「・・・クリス?」
ディスプレイに表示された名前に首を傾げつつ、ヴィクトルは通話ボタンをタッチする。
「ハイ、クリス。どうしたの?こんな時間に」
ボンソワール、と期待を裏切られたがっかり感を微塵も出さず、ヴィクトルはにこやかにクリストフに声を掛けた。
「リビングレジェンド様に電話をするには、何か特別な用がないとダメなのかな?」
クス、と小さく笑い声を漏らすクリストフに、ヴィクトルはとんでもないと首を振る。
「ちょっと夜更かししてたら、ちょうどヴィクトルの誕生日になったからね。せっかくなら、時間ピッタリにお祝いを言ってあげようと思ったら、話し中なんだもん」
おめでとう、と低く艶のあるクリストフの囁きに、ヴィクトルは目を細めた。
「あぁ・・・ありがとう。零時になるちょっと前に、ユウリから電話があったんだよ」
「・・・零時になる前に・・・・ねぇ・・・・」
へぇ、とクリストフは小さく頷いた。つまり勇利は、誰よりも早く、且つ確実に零時ピッタリにヴィクトルの誕生日を祝う為に、フライング気味に電話を掛けたと言うのだ。
「ユウリって、見た目と違って凄い負けず嫌いだよね」
ふふふ、とクリスは笑い声を漏らした。負けず嫌いは、トップアスリートの資質でもあるのだが、それをなりふり構わず見せるのは、あまり勇利らしくないように思える。
「そう?俺は見た目どおりだと思うけど?」
不思議そうに首を傾げるヴィクトルに、クリストフは思い出す。そう、勇利は自他共に認める重度のヴィクトルオタクである。誰よりも早く、と思うのであれば、ある意味なりふりなど構わないだろう。そして、それを見慣れているヴィクトルには、勇利の行動は当然の姿に違いない。
「・・・ラブラブだよねぇ」
他人が入る隙間も与えない。そしてそれを人目も憚らずやってのける二人に、羨ましささえ覚えてしまう。
「なるほど、だからユウリはあんな時間に電話してきたんだね」
クリストフの言葉に、ヴィクトルはようやく合点がいった、と手を打った。そう、とヴィクトルは目を細める。スリーピングビューティーと名高い勇利が、あんな早朝に電話を掛けてくるなど、本当に珍しいことなのだ。それが、ヴィクトルのロシア選手権優勝を祝う為だけなど、説得力に欠けるのだ。あぁ、とヴィクトルは緩める頬を止める術を持たなかった。無意識の独占欲、とでも言うのだろうか。何よりも自由を愛する自分が、どうしてこれ程までに心地良く感じてしまうのだろう。
「なんだ、気付いてなかったの?」
「ユウリは俺を驚かせる天才だからねぇ」
きっと電話の向こうでは、見る者すら蕩けさせるような、甘い甘い笑みを浮かべているのだろう。これ以上当てられては堪らない、とクリストフは退散することを決めた。
「目的を果たすこともできたし、そろそろ寝るよ」
「わざわざありがとう。次はユーロかな?」
ヴィクトルの言葉に、クリストフは小さく笑った。二足の草鞋を履いていても、やはり氷の皇帝は氷上に君臨し続けるのだ。さすが、と言うべきか。
「会えるのを楽しみにしているよ。じゃぁ、おやすみ」
「おやすみ、クリス」
良い夢を、と互いに囁いて、ヴィクトルは通話を切った。暗くなったディスプレイを見下ろし、そして小さく笑う。否、笑いが漏れてしまう。
「そっかぁ〜。ユウリ・・・・そうか・・・」
勇利が、あの時間に電話を掛けてきた理由。クリストフに指摘されるまで、本当に何も考えなかった。ただ、生徒が帯同できなかったコーチに成績を報告する為に、電話をしてきたのだと思っていたのだ。
「あぁもぉ・・・本当に可愛いなぁ」
ヴィクトルは今度こそバスローブを脱ぎ捨てると、ベッドにダイブした。
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