愛に飢えた獣

 


 
 生まれて初めて長い夏を過ごし、その延長線を彷彿とさせる残暑まで、ヴィクトルとマッカチンはどうにか乗り切った。暑さに茹だるヴィクトルとマッカチンを連れて、勇利は何度海に通ったか。


「もしかしたら、子供の時よりも行ったかも・・・・」


 両親は商売で忙しく、幾ら姉が七つ上と言えど、子供だけで海に行かせて貰える訳もなく。考えてみれば、数えるぐらいしか、海水浴などしたことがなかったかもしれない。そう、気付けば海の思い出は、ヴィクトルやマッカチンと遊んだ日々ばかり。


「ずっとスケート漬けだったし・・・・」


 ヴィクトルが自分の前に現れるまで、勇利はそれで良いと思っていた。スケートさえしていれば、全ては満たされる、と自らを欺いていた。世間の楽しいことから目を背け、それらが自分に縁のないことだと気付かないように。それじゃダメだ、とヴィクトルは勇利の腕を引っ張って、外の世界に目を向ける勇気を授けてくれた。


「シーズン前に、こんなに遊んだことないよ」


 海岸で花火もしたし、と勇利は淡く微笑んだ。もちろん、練習は日々濃密になって行き、四回転サルコウの成功率も徐々にだが、上がってきていた。こんなに順調で良いのだろうか、と逆に不安になってくる始末だ。


「いや・・・毎年、不安になっよるよ」


 勇利は変わらない自分に苦笑しつつ、念入りにストレッチを繰り返した。そして、最後に大きく伸びをすると、首を傾げる。


「・・・喉、乾いた・・・・」


 お茶でも飲むかな、と勇利は立ち上がり、襖を開けた。すると、薄い障子越しに、ヴィクトルの声が聞こえた。


「マッカチンと何か話してるのかな?」


 だが、と勇利は思わず足を止めた。マッカチン相手にしては、声は低く、どこか余所余所しい。そして、


「ダスピターニャ」


 それは確か、と勇利は呟いた。別れの時に口にする言葉だった筈、と思った瞬間、スパンと勢い良く障子が開いた。


「っ・・・」

「あれ?ユウリ?」


 見たこともない表情のないヴィクトルに、勇利は息を詰まらせた。いつもニコニコと笑っているヴィクトルからは想像もできないくらい、ゾっとする程冷たい顔。だが同時に、精巧に作られた人形のようで、息を飲む程に美しい。


「どうしたの?俺に何か用?」

「っ・・・いや、あの・・・喉乾いて、何か飲もうかと思って・・・」


 本当のことを言っているのに、どうしてこんなに後ろめたい気分になるのか。勇利は、あわあわ、としながら更に続ける。


「大丈夫、僕、ロシア語分からないし、ヴィクトルが誰と何を話してたとか、全然・・・」


 ロシア語は分からない、とは言っても挨拶程度なら何とかヒアリングできなくもなかったりするんだけど、としどろもどろに説明を続けてしまい、気付いた頃には勇利は立派な泥沼に嵌まっていた。


「・・・ごめんなさい」


 しゅん、と項垂れて謝罪を口にした勇利に、ヴィクトルは首を傾げた。


「何で謝るの?ユウリ、何かしたの?」

「その・・・立ち聞きしてたみたいになっちゃって・・・」


 タイミングが悪かったことすら謝罪しなきゃいけないなんて、それこそ理不尽だろう。もし非がある、と主張するなら、まるで勇利は全てを見通せる神のような存在で、今回敢えて立ち聞きできそうなタイミングで、部屋を出たことになる。例えそれが真実だとしても、可哀想なくらい狼狽する勇利に、どうして疑いの目を向けられようか。そう思った瞬間、ヴィクトルは噴き出していた。


「ぷっ・・・・ハハハハ・・・・あははは・・・」


 慌てて目をグルグルさせる勇利の姿に、お腹が痛い。ひぃ、と笑いで喉は引きつり、眦に涙が滲む。


「ヴィクトル?」


 突然壊れたように笑い出したヴィクトルに、勇利は目を丸くした。自分は、笑われるようなことをしただろうか。誠心誠意、謝罪したのではなかったか。困惑する勇利をよそに、ヴィクトルはお腹を抱えて笑い転げた。開け放たれた障子から恐る恐る顔を出して、ご主人様の様子を伺うマッカチンに、勇利は思わず共感を覚えた。そして、生徒と愛犬が心配そうに見守る中、ヴィクトルはひとしきり笑い終えると、大きく息を吐き出した。


「はぁ・・・・疲れた・・・」


 はぁはぁ、と肩で息をするヴィクトルは、まるでFSを踊り終えたようだ。勇利は首を傾げた。何がそんなに面白かったのだろうか。否、説明の最中に思い出し笑いをされても困る、と勇利は首を振る。


「ユウリ、何か飲みに行こうとしてたんだっけ?」


 呼吸も整わぬ中、紡ぐ言葉は途切れがちだ。


「うん、ヴィクトルも行く?」


 何か飲めば落ち着くだろう、と勇利が声を掛けると、ヴィクトルは嬉しそうに頷いた。


「行く!笑い過ぎて、喉が乾いちゃったよ」


 あはは、と更に笑うヴィクトルに、勇利は目を細める。そりゃ、あれだけ大爆笑をすれば喉もカラカラになるだろう。じゃぁ行こうと、と勇利はヴィクトルを連れだって階段を降りる。


「それで、ユウリは何を飲むの?」

「水か、お茶かなぁ・・・」


 体冷やさない為にはお茶が良いかも、呟く勇利に、ヴィクトルは首を傾げた。


「お酒じゃないの?ビールとか」

「明日も練習あるのに、お酒なんて飲まないよ!」


 何を言い出すのか、と勇利は信じられないものを見るような目で、ヴィクトルに振り返った。驚く勇利に、ヴィクトルは負けず劣らずの困惑顔を見せた。


「えぇぇ・・・サシノミしようよ〜」

「サシ飲みなんて、どこで覚えたの・・・・」


 ミナコ先生だろうなぁ、と勇利はガックリと肩を落とした。日本語を覚えてくれるのは嬉しいが、酷く偏っている気がするのは、勇利だけではないだろう。


「ユウリ、全然お酒飲まないよね?弱い訳でもないのに」


 バンケットでは陽気に泥酔していたが、ジュニアの選手にもダンスバトルを吹っ掛けるくらい、足腰はしっかりしていた。そう、前後不覚になるまで酔い潰れる訳でもないのだ。少しくらいお酒を飲んで、まだ見せようとしない心の内を晒してくれても良いと思うのだが。


「ヴィクトル、お茶でいい?」


 お酒云々の話を華麗にスルーして、勇利は爽やかに微笑んだ。どうやら、勇利にはお酒の話はタブーなようだ。何故だろう、と首を傾げつつ、ヴィクトルは頷いた。


「じゃぁ、居間で待ってて」


 淹れていくから、と先に居間で座っているように指を差す。だが、ヴィクトルは首を振った。


「勇利がお茶を淹れるの?」

「まぁ・・・お母さんに頼む程のことでもないし」


 正しい作法など覚えていないけれど、と勇利が肩を竦めて笑うと、ヴィクトルはキラキラと目を輝かせる。


「お茶淹れるの、見てて良い?」

「・・・・良いけど、別に面白くないよ」


 しかも、湯の温度や茶葉の量など適当だ。それでも良いなら、と言い置いて、勇利はヴィクトルを連れだって狭い台所に入った。そして、ポットの中身を確認する。


「あれ、お湯ないや」


 勇利は小さく呟くと、薬缶に水を入れ火に掛けた。湯が沸くまでの間に急須を用意し、適当に茶葉を振り入れる。手持無沙汰になった勇利は、流しにほったらかしになっている茶碗を洗い始めた。


「ユウリもお手伝いするの?」


 興味深々に勇利の手元を覗き込んでいたヴィクトルが、ふと口を開いた。勇利は手を泡だらけにしながら、お手伝い、と小さく唸った。


「お手伝いって言う程のことは、したことないんだよね・・・」


 練習や試合で忙しいから、と積極的にやったことはない。いつも、姉が忙しい両親をサポートするように手伝っていた背中を、見ていただけ。中学に上がる頃にようやく、今日みたいに気付いた時に、茶碗を洗うようになった程度だ。


 流しに残っている全ての食器を洗い終えると、勇利は蛇口を捻った。勢い良く出てくる水で泡を流し、水切り篭に手際よく並べていく。その手つきは、間違っても手伝いをしない人間のそれではなかった。やはり、とヴィクトルは目を細めた。勇利の言葉に、謙遜が混じらないことはない。話半分に聞く必要がある。そう心に強く誓った時、突如として警笛のような音が台所に響き渡った。


「何の音?」


 耳をつんざく鋭い音に、ヴィクトルは眉を顰めて耳に手を当てた。だが、勇利が顔色一つ変えずコンロの火を消すと、音は気が抜けるように小さくなって消え去った。驚きを露わにするヴィクトルに、勇利は薬缶に手を伸ばしながら説明を口にする。


「お湯が沸くと、音が鳴るんだよ」

「へぇ・・・便利だねぇ・・・」


 しげしげ、と覗き込むヴィクトルに、勇利は苦笑を漏らしながら下がるように声を掛け、熱湯をポットに注ぎ入れる。そして、ヴィクトルに湯飲み二つを持たせ、自分はポットと急須を手にした。


「じゃぁ、居間に行こうか」

「オーケー」

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 至近距離で手元を覗かれ、これ以上なく緊張しながらお茶を淹れた勇利は、震える手で湯飲みをヴィクトルに渡した。ヴィクトルは湯飲みを鼻に近付けると、大きく息を吸い込んだ。


「日本茶の香りって、落ち着くよね」


 ふぅ、と表情を緩めると、そのまま湯飲みを傾ける。ゆっくりと飲み込むと、若葉にも似た香気が鼻腔の奥をふわりと掠める。そして、ヴィクトルは心の澱と一緒に息を吐き出した。


「ロシアって紅茶だよね?」


 ジャム入れるやつ、と勇利が首を傾げると、ヴィクトルは掌で湯飲みを包み込んで笑う。


「俺はコーヒー飲むことの方が多いかな」


 もちろん紅茶も飲むが、長谷津に来て以来、日本茶を飲む機会が増え、その紅茶とも違う香りと味にすっかりファンになっていた。


「時々なら、ジャム入れて飲むこともあるよ。疲れてる時とか良いよ」


 その甘さに癒されることもあるが、今のささくれた心を宥めてくれるのは、この日本茶の香りだった。もしかしたら、とヴィクトルは手の中の湯飲みを見下ろした。淹れてくれたのが勇利だから、より心が穏やかになるのかも知れない。ヴィクトルは、ふわ、と目を細めた。


「ユウリ、お代わり頂戴」


 ぐい、とお茶を煽ると、ズイと湯飲みを突き出した。勇利は湯飲みを受け取ると、ポットから急須に再び湯を注ぐ。柔らかな香りに失念しそうになるが、日本茶にもカフェンが含まれているのだ。寝る前に飲み過ぎるのは、あまり宜しくない。少しくらい薄い方が良いだろう、と茶葉は足さなかった。否、茶筒を台所に忘れて来た言い訳だ。


「さっきより、少し薄いよ」


 そう言って、勇利はヴィクトルに湯飲みを渡す。ヴィクトルは嬉しそうに湯飲みを受け取ると、お茶の香りを胸一杯に吸い込んだ。そして、ゆっくりと唇を濡らす。


「日本茶飲んでると、色んなことがどうでもよくなるよね」


 ほう、とうっとりと息を零すヴィクトルに、勇利は顔を上げた。気のせいか、廊下で会った時よりも、顔に赤みが差して見える。


「ねぇヴィクトル・・・何があったの?」


 聞いて良いのだろうか、と躊躇いながら、勇利は恐る恐る声を掛けた。ヴィクトルの顔から、一切の表情が消える程の何か。果たして、それを自分なんかが尋ねて良いのか。ヴィクトルは湯飲みをテーブルに置くと、そうだなぁ、と目を伏せた。


「あ!いや、別に・・・言いたくなければ・・・無理には・・・・」


 わたわた、と慌てる勇利に、ヴィクトルは頬を緩める。自分を気遣ってくれている。心配してくれている。ただ、それだけで心が軽くなる。


「人生ままならないな、と思ってただけだよ」

「・・・ヴィクトルが、それを言うの?」


 驚きで目を丸くする勇利に、ヴィクトルは肩を竦めた。確かに、第三者から見れば、自分の人生は思うがままだったように見えるだろう。世界大会五連覇という偉業を成し遂げながら、それでも勇利のようにがむしゃらに練習して得た物ではない、という事実。天才、という言葉に等しい生き方をしてきた。


「やっぱり、ユウリもそう思うよねぇ・・・」

「あ・・・ごめん・・・・」


 天才と謳われていても、きっと人知れず努力していたに違いないのに。眉根を寄せる勇利に、ヴィクトルは快活に笑って首を振る。


「いやぁ、俺もそう思ってたんだ」


 自分の人生は、常に順風満帆だった、と。それが、首相だか大統領だか知らぬが、物言いをつけて良い理由にはならない。ヴィクトルはキョトンと自分を見つめる勇利に、目を細めた。


 彼は、先の見えない確実性のないことに時間を費やすのは無駄だ、と言い放った。果たしてそうだろうか、とヴィクトルは思う。予定調和程、人の心を殺す物はない。驚きもなく、感動も薄くなる。そんな世界に、ヴィクトルは絶望していた。そして、それを覆す光が、勝生勇利なのだ。


「未来は不確定だから、面白いんじゃないか」


 ヴィクトルは柔らかな微笑を浮かべて、勇利を見据えて口を開いた。


「ねぇ、ユウリ。頑張ろうね」


 目の前に迫るシーズン開始に、ヴィクトルは眦を吊り上げた。