「ミシェル先輩、猫飼うんですか?」
昨日の雨が嘘のように晴れ上がった昼休み。一人食堂で、携帯片手にカレーを突いていたミハエルの隣に、パスタとサラダを乗せたトレイを抱えたルカが腰を下ろした。
「何だ、隊長から聞いたのか」
自分が猫を飼うことが、そんなに大事件なのか。出勤早々、一体何人の人間に声を掛けられただろうか。ミハエルは、肩を竦めた。どうやらオズマは、昨夜の内にブリーフィングルームで吹聴して回ったらしい。果たして、シフトの調整をしてくれたことを、素直に感謝しても良いのだろうか。
「今日、病院にお迎えに行くんでしたっけ?」
ルカの言葉に、ミハエルは天を仰いだ。何から何まで、ご丁寧に全部喋ってくれたらしい。
「・・・・俺にプライバシーはないのか・・・・」
「オズマ隊長、凄く嬉しそうでしたよ」
首を傾げるルカに、ミハエルは曖昧に頷いた。オズマは、女性関係の派手な自分を心配し、何度も苦言を呈していたのだ。例えそれが猫相手でも、女遊びが減るのなら万々歳と言いたいのだろう。う〜ん、とミハエルは小さく唸った。
「それで、先輩は携帯で何を調べていたんですか?」
クルクルとフォークにパスタを巻きつけながら、ルカはニコニコと笑い掛ける。ミハエルは携帯電話のディスプレイをルカに見せながら、実は、と口を開いた。
「この自動給餌器を買うかどうか悩んでるんだよ」
仕事もあれば学校もあり、更には長期の作戦に駆り出されることもあるミハエル。自分がいない間、猫にひもじい思いをさせない為にも、必要なアイテムのように見えるのだ。だが、それを見たルカはパスタを口に運びっつ、複雑そうな表情を浮かべた。モグモグと咀嚼し、何か言いたそうな目をミハエルに向ける。
「ネットで、給餌器に懐いちゃった猫の写真を、見たことがありますよ」
ルカはパスタを飲み込むと、給餌器にスリスリする猫の写真をミハエルに見せた。第三者としては、面白く可愛らしい一枚だが、ご主人としては何とも悲しい状況である。自分が呼んでも振り向かず、お腹が空いても寄ってくることもない。時間になれば、焦らすこともなく餌をくれる給餌器に、媚びている姿を眺めるしかないなど、何たる悲劇か。ミハエルは軽く身震いすると、強く決心した。
「自動給餌器は、まだ必要ないな」
昨日のような急な依頼が飛び込んでくることはあるが、それでもミハエルとルカはまだ学生。SMSの正規隊員ではあるが、雇用形態はアルバイト。猫を誰かに預ける時間もない程慌ただしく、長期ミッションに駆り出されることはないと思いたい。
「それより、キャットタワーは買わないんですか?」
あとおもちゃ、とルカは楽しそうだ。ミハエルはスプーンをトレイに置くと、中指でメガネのブリッジを押し上げる。
「あぁ。買おうかとは思ってるんだが、その前に家の中を掃除しないといけないんだ」
それが終わるまでは、と自嘲を浮かべるミハエルに、ルカは首を傾げた。
「ミシェル先輩のお宅って、いつも綺麗に整理整頓されているイメージなんですが・・・」
それはまるでモデルルームの如く、とルカは真剣な表情で続ける。ミハエルは、思わず乾いた笑い声を漏らした。掃除が行き届いている、というイメージはありがたいが、完璧主義はたまた潔癖症のように思われているのは心外だ。
「使ってない部屋が一つあってさ。そこを猫部屋にしようかと思ってるんだ」
その部屋の荷物を出さない限り、キャットタワーを置くスペースはない。だが、とミハエルはため息を吐きだして、再びスプーンを取り上げた。その部屋を片付けることはおろか、扉を開けることすら、ミハエルには躊躇いがあるのだ。それでも新しい住人の為、部屋を用意するのは家主の務めだろう。そう自分に言い聞かせる。
「猫ちゃんが慣れたら、是非僕のことも紹介してくださいね」
その時はおもちゃを持って行きますね、とルカは無邪気に笑って再びパスタをフォークに絡める。その笑顔に、ミハエルは曖昧に笑うしかなかった。果たして、あのマンションに誰かを招く日が来るのだろうか。
「そう言えば、話変わりますけどミシェル先輩。芸能科のお姫様、ここ二週間程休んでいるらしいんですよ」
何か知ってます?とパスタを口に運ぶルカに、ミハエルは肩を竦める。
「俺が知ってると思うか?」
「情報通のミシェル先輩なら、何か知ってるんじゃないかと思って。芸能科でも、何でお休みしているのか誰も知らないとか」
水を一口含んで、ルカはサラダに手を伸ばす。
「ルカ、言葉を間違えてるぞ。情報通というのは、お前みたいなヤツのことを言うんだよ。俺の場合は、女の子たちとの会話の端々から情報を拾うのがせいぜいだ」
そう言いながら、ミハエルは脳内データベースを検索する。
芸能科のお姫様などという二つ名を持つ人間など、ミハエルたちの通う美星学園には一人しかいない。銀河歌舞伎宗家早乙女一門の長男、早乙女有人その人だけ。男でありながら、姫と謳われる程の美貌を持ち、天才女形と絶賛されるに相応しい立ち振る舞い。背中を覆う、長く艶やかな黒髪を掻き上げる何気ない仕草でさえ、溜め息が漏れるくらい美しいのだ。そんな人物が二週間も休んでいるとなると、確かにニュースにはなるかもしれない。だが、とミハエルはカレーを口に運ぶ。
「公演で忙しいとか・・・いや・・・・」
相手は、既に第一線で活躍している天才役者だ。学業よりも、芸事を優先させているだけの可能性もある。しかしミハエルは、そうでないことを知っていた。アルトの父であり芸の師匠でもある嵐蔵の方針なのか、アルトは学業を疎かにはしていなかった。平日の公演は、アルトが出る演目は夜に開演するのが基本であり、放課後慌ただしく学校を後にする姿を何度目にしただろうか。ならば、とミハエルはスプーンを噛んだ。
「フロンティア以外の船団での公演なら・・・・」
気軽に行き来ができる距離ではない。どうしても、長期の欠席をせざるを得ない。だがそれも違う、とミハエルは首を振る。ミハエルの記憶が確かなら、
「早乙女一門にフロンティア船団外での公演予定は、しばらくなかった筈だが・・・・」
それに、もし他船団での公演ならば、早乙女アルトの長期欠席はニュースにもならないだろう。むしろ、銀河歌舞伎宗家の早乙女一門が他船団で公演するというだけで、銀河中の芸能ニュースが賑わうのだから。う〜ん、と悩むミハエルに、ルカは天使の笑顔を閃かせる。
「ミシェル先輩も、早乙女先輩のこと色々気になってるんですね」
「え?」
ルカの言葉の意味が分からず、ミハエルは思わず首を傾げた。
「いきなりあんなことされたら、いやでも気にしちゃいますよね」
あんなこと、と反芻するミハエルの脳裏に、ある日の出来事が蘇る。ジュリエットの衣装を纏ってギリギリと眦を吊り上げ、むさ苦しい航宙科に怒鳴りこんで来たのだ。
「あぁ・・・そうだったな・・・・」
ミハエルは目を細めた。ルカが言うあんなこととは、お姫様が一人で乗り込んできたことではない。その後の出来事だ。売り言葉に買い言葉。挑発するミハエルの言葉に乗せられて、アルトはEXギアで単独飛行をする羽目に陥ったのだ。EXギアでの飛行は一見簡単そうに見えるが、その特性を理解し、訓練を受けた身でなければ、飛ぶことはおろか地面に叩き付けられてしまう、危険と隣り合わせの物なのだ。無論、学年主席を誇るミハエルに、それが分からない筈がない。ただ、あまりに跳ねっ返りの強いお姫様に、少しだけ怖い思いをさせたかっただけ。危険と分かればすぐに、ルカによるリモート操作で、安全な恐怖をご堪能頂くつもりだったのだ。だが、
「初心者に、あれだけ完璧に飛ばれちゃな・・・・・」
あれは、最早奇跡だった。天才には何をさせても完璧なのか、といもしない神様を恨みそうになるくらい。ルカでさえ惚れ惚れするような、完璧なフォーム。訓練を重ねてきた誰よりも、自然に美しく空を飛んだのだ。
「何者か気になるだろうな・・・・」
芸能科のお姫様としての顔は知っているが、それは所詮周囲が作り出した偶像に過ぎない。その恐るべき身体能力がどこからくるものなのか、そしてどうして着けて間もないEXギアをまるで自分の体の一部のように扱えたのか。ルカとしても興味が尽きなかったのだろう。だからこそ、噂話に耳を傾けている暇のないルカが、芸能科のニュースを拾ってくるような事態が発生するのだ。ミハエルは、静かに眼鏡のブリッジを押し上げる。
「俺は随分前から気になってるんだけどな・・・・」
「何か言いましたか?」
良く聞こえなかった、と眉根を寄せるルカに、ミハエルは静かに首を振った。
「別に、大したことは言ってないから。それより、早く食わないと冷めるぞ」
すっかり手の止まってしまっているルカに柔らかく笑いかけて、ミハエルも残りのカレーを口に運んだ。
最後の一匙を放り込んで、ミハエルは立ち上がった。
「悪いなルカ、俺は先に行くぞ」
「あぁ、ネコちゃんのお迎えでしたね」
いってらっしゃい、と天使の笑顔を浮かべて手を振るルカに、ミハエルは片手を上げて答えると、空いた食器の載ったトレイを持って踵を返した。
トレイを返却台に戻しながら、ミハエルは自嘲を浮かべた。ルカは、自分が早乙女アルトに興味を持ったのは、あの事件からだと思い込んでいるようだが、実際はもっとずっと昔からなのだ。
ミハエルが、初めて早乙女アルトを知ったのは、まだ彼が幼かった頃。両親を失い、生きていく気力もないままに、まるで人形のように塞ぎ込んで毎日を過ごしていたミハエルに、姉は笑顔を取り戻そうと、方々手を尽くしてくれた。だが、ミハエルの感情が揺さ振られることはなかった。
そんなある日、姉に連れて行かれた歌舞伎の舞台に、ミハエルは震えた。両親が死んで以来、暗闇に囚われていたミハエルの世界に、燦然と舞い降りる天女の姿。差し伸べるような白く細い手に、ミハエルが応えるように腕を上げた瞬間、ミハエルを取り巻いていた闇が砕けるように爆ぜた。まるで粉々になったガラスが剥落するように、ミハエルの世界に光が差し込み、色鮮やかに染まって行った。
それから、ミハエルは何度もアルトの舞台に足を運んだ。両親を失ってから初めて見た美しい世界。それを確認したくて、自分が守るべき物がそこにあるのだと信じたくて、ミハエルは何度も姉に連れて行って欲しいと頼んだ。もちろん、全ての願いが聞き届けられた訳ではない。それでもジェシカは、人としての感情や表情を取り戻し始めた弟の願いを、何とか叶えようとしてくれた。そうして、ミハエルは天女の舞と微笑みに生きる気力を取り戻し、世界を守ろうと強く誓った。何より、自分と同い年だと知った天女が頑張っているという事実に、ひどく励まされた。
「・・・・あれが初恋って言ったのは・・・・」
当時を思い出して、ミハエルは力なく頭を掻いた。そう、初恋は実らない物、とはよく言った。どんどん歌舞伎に嵌り込む弟に、ある日ジェシカは真実を告げたのだ。歌舞伎は、男性しか舞台に上がれないのだ、と。あの美しくたおやかな天女やお姫様も、全員男性。その時の衝撃を、どう表現すべきだろうか。ガラガラと足元が崩れていくような感覚に襲われたのは、確かだ。
「それでも・・・・」
あの天女が男と知ってからも、姉が死んでからも、ミハエルは早乙女アルトの舞台を見に通い続けた。数多の女性と逢瀬を重ねながらも、歌舞伎通いは止めなかった。果たして、そこに意味はあるのだろうか。ただ、姉がいた頃の習慣を繰り返して、喪失感から目を背けようとしていたのか。その感情が何なのか、ミハエルには分からない。いや、とミハエルは自嘲を漏らす。考えてはいけない気がするのだ。
「やべ、急がないと!」
チラリと時計に目をやって、ミハエルは大慌てで走り出した。物思いに耽っている場合ではない。今日からは、仔猫と共同生活を送るのだ。ミハエルはパシンと両手で頬を軽く叩くと、過去の自分を払うように走り出した。
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