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 キシリ、という微かに床の撓る音に、アルトは微睡みに漂いながら、小さく声を上げた。どうやら、ミハエルが帰って来たらしい。ぼんやりと胡乱だ頭のまま、アルトはS . M . Sでの遣り取りを思い出して小さく笑う。

 逃げるミハエルと追うルカ。

アタッカーであるアルトの機体とはまた違った角度から、スナイパーであるミハエルの機体は、改良の余地が多々あるらしい。確かに、宇宙空間と空気抵抗のある場所では、弾丸の飛び方が違う。ミハエル程の狙撃主であれば、その微妙な違いを修正することはできるだろう。それでも、絶対を課される場面で機体からサポートがあれば、スナイパーの心的ストレスは緩和される。そして生まれた余裕は、命中精度の向上へと繋がる。だからこそ、是が非でもミハエルの協力が必要なのだ、とルカは主張していた。そうだろう、とアルトも思う。しかし、ミハエルは理由をつけてはルカから逃げ回っていた。その最たる理由が、アルトとの時間を優先させる為だったと聞いた時には、あまりのことにアルトは思わずその場にへたり込んでしまった程だ。

 そうして結局、ミハエルはルカに首根っこを掴まれて、溜めるに溜めた性能テストを消化する羽目に陥ったのである。夜明けの時間までに終わるかすら怪しい、というルカの言葉に、アルトは一人でさっさと帰宅したのだった。

 謝罪と併せて、先に寝ているよう記されたミハエルのメールに甘えて、アルトは一人には広いベッドに潜り込んだのだ。だが、どこかでミハエルのことが気になっているのか、深い眠りは一向に訪れず、小さな物音がする度にミハエルの気配を探ってしまっていた。

 静かにドアの開く音が、微かに闇を揺らす。ベッドが撓ると同時に、サラリとアルトの髪が梳かれる。その心地よい指の動きに、アルトは目を開けずに微笑んだ。

「ん・・・・・・みしぇ・・・・・・っんんぅ・・・・・・」

 お帰り、という言葉は強く押し当てられた熱い唇に阻まれてしまう。誘うようにアルトの唇をなぞるミハエルの濡れた舌に、思うよりも早く背筋が粟立つ。覚えのある甘い痺れが、眠気のヴェールを払って行く。それでも、睡魔に捕らわれた身体では抗うことすら間々ならない。

「・・・・・・アルト・・・・・・・」

 耳朶に触れる熱い吐息。色を孕んだミハエルの低い特別な声に、指先から痺れて力が抜けていく。閉じた瞼の向こうで、ミハエルが笑ったような気がする。同時に、ミハエルの脚がアルトの大腿を割った。アルトは息を飲んだ。そう、ミハエルは知っているのだ。どうすれば、アルトが簡単に堕ちるのかを。幾度と肌を重ね、アルトの全てを知り尽くした指が暴く。緩くなぞり上げられる同時に、ミハエルの指がパジャマ代わりのタンクトップの裾から忍び込む。

「っはっ・・・・・・」

 薄く開いた唇から吐き出した息は熱く、絡み合う舌の熱と擦れ合う感触に身体が震える。ねっとりと口腔をなぞりながら、脚でアルトを煽れば、腕の中で身体が爆ぜる。手を這わせた肌の温度は、どこまでも上昇する。期待に膨らんだ胸の蕾に触れれば、ツンと固く尖る。そのまま指の腹で捏ね回せば、交わした唇から甘い声が落ちる。ミハエルは笑みを深くすると、タンクトップを押し上げた。

 

◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆

 

 体中が妙にだるい。別段、昨日の任務がしんどかった覚えはない。

「アルト〜、朝飯できたぞ〜」

 軽いノック音と同時に響いたミハエルの声に、アルトは重たい瞼を押し上げた。カーテンの隙間から差し込む白い光。そして、素肌に触れるシーツの感触。ぼんやりと辺りを見回しつつ、状況を整理する。それでも、この覚えのある倦怠の理由が思い出せない。二、三度瞬きを繰り返し、落ちてくる黒髪を指で掻き上げながら、散らばった記憶を辿る。鉛のように重い体を引きずるようにして起き上がった。そして、アルトは声を上げた。

 ベッドの下に脱ぎ散らかされた、パジャマや下着。一気に記憶が蘇る。あぁそうだ、思い出した。

夜遅くに帰ってきたミハエルに、微睡みの中、抗うこともできずに抱かれたのだ。アルトは、真っ赤になって布団の上に突っ伏した。半分眠ったままの自分は、果たして何を口走っただろうか。衝動に突き動かされるまま、はしたない言葉を口にしたりはしていないだろうか。悲鳴にも呻きにも似た声は、冷たい上掛けに吸い込まれる。それでも、とアルトはノロノロと顔を上げた。今更、ミハエルに確認するわけにも行かない。そう、ミハエルに聞こうものなら、脂の下がった顔で、例えば?とか言ってくるに決まっている。下手をすれば、薮蛇になりかねない。そうなれば、夢現のまま、あられもないことを言っていないことを祈るしかない。

「とりあえず・・・・・メシ・・・・・・」

肩口から滑り落ちる黒絹の髪もそのままに、アルトはタンクトップを拾い上げた。深夜まで仕事をしていたミハエルに、朝食を作らせたことを後ろめたく思わないわけでもない。だが、とアルトはタンクトップから髪を掬い出して鼻息を荒くする。そもそも、ミハエルが余計なことをしなければ、自分が朝食を作る筈だったのだ。疲れて泥のように眠るミハエルを起こして、ゆっくりと朝食を取りながら、久しぶりの二人揃ったオフの過ごし方をのんびり決めようと、一人きりのソファの上で考えていた。人の気も知らないで、そう小さく口の中でごちた時、

「アルト〜、冷めちゃうぞ〜」

 再び、キッチンの方からミハエルの声が響いた。

「・・・・・本当に・・・・・・」

 アルトは紅い組紐で緩く髪を纏めると、小さく息を吐き出した。どこか弾むようなミハエルの声に、文句を言う気が失せてしまう。アルトは自嘲を浮かべると、ドアノブに手を伸ばした。

 

◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆

 

「おはよう。昨日は何時だったんだよ」

 ダイニングテーブルに用意された朝食に目尻を下げながら、アルトは椅子を引いた。同居を始めたばかりの頃は、パン食に抵抗があったのだが、今ではミハエルの作る朝食には欠かせないアイテムだ。ホカホカと湯気を立ち上らせる、アツアツのベーコンエッグ。黄金色に輝く黄味が、朝日を照り返している。カリカリに焼き上げられたベーコンからも、何とも美味そうな香りが漂う。アルトの腹から、ぐぅ〜、と情けない音が上がる。深夜に想定外の運動をさせられたのだ、腹が減るのは当然か。頬をほんのりと染めて俯くアルトに、ミハエルは眦を下げた。冷蔵庫からビシソワーズを取り出すと、時計を見やる。

「多分、三時前だったと思う」

 散々ルカに付き合わされて、家に辿り着いた頃には疲労困憊のあまり、時計を見る余裕すらなかったのだ。いや見たかもしれないが、記憶が定かではない。そう笑うと、アルトが勢い良く顔を上げた。

「じゃぁ・・・・・・・・」

 だが、言葉を言い終えることなく、再び俯いてしまう。ミハエルは、オレンジジュースを注いだグラスをテーブルに置いて、アルトの顔を覗き込んだ。

「なぁに?姫?」

 教えて、と艶やかな髪を指で撫でると、アルトは顔を隠すように背ける。サラリと揺れた髪の隙間から覗く耳が、赤く染まっている。ミハエルは思わず、頬を緩めた。アルトの言いたいことが分かったような気がする。本当に、とミハエルは肩を竦めた。

「ほら、言いたいことがあるなら教えて?・・・・・・夕べみたいに、さ」

 素直にいっぱいおねだりしてくれたじゃん、と嘯くミハエルにアルトは今度こそ恥も外聞もなく叫んだ。

「適当なコト言ってんじゃねぇっ!」

 紅く染まった頬は、怒りか羞恥か。ミハエルは眼鏡のブリッジを押し上げると、ニヤリと唇を歪めた。

「忘れちゃったの?夕べのアルト、すっげぇ可愛かったんだぜ」

 言うに事欠いて、とアルトは激昂する。だが、本当に何も言わなかったという保障はない。何より、自分が一番信用できないのだ。アルトは力なく肩を落とした。

 がっくりと落ち込んだ様子のアルトに、ミハエルは自嘲を滲ませた。調子に乗って、少し苛め過ぎたようだ。嘘は言っていないが、百パーセントの真実ではない。そうあれば良い、という願望が多分に含まれていた。ミハエルはアルトの向かいに腰を下ろすと、空気を換えるように声の調子を上げる。

「取り敢えず、食おうぜ?ベーコンエッグが冷めちゃうし」

 ほら、とクロワッサンの入ったバスケットを押しやって、ミハエルは手を合わせた。オレンジジュースの入ったグラスを傾けるミハエルに、アルトは息を吐き出した。どうせ、どんなに問い詰めても、ミハエルが真実を口にすることはないのだ。いつもどおりおちょくられているだけ、と言い聞かせて、アルトはミハエルに倣ってオレンジジュースに手を伸ばす。酸味の効いたジュースが、眠気の残滓を洗い流す。軽く温められたクロワッサンを一口齧って、ひんやり冷えたビシソワーズに口を付けた。ピリッと胡椒を効かせたスパイシーなビシソワーズが、重たい倦怠を振り払う。

「ビシソワーズまで作ったりして、眠れなかったのか?」

 元々の自炊経験に元来の器用さも手伝って、ミハエルの料理の腕前はアルトが目を見張る程の上達を見せていた。うかうかしていると、和食すらアルトを抜いてしまうかもしれない。恐ろしいような、楽しみのような。かつてのミハエルもこんな気分だったのか、と思うとどこかくすぐったい。

「いや、可愛いアルトに癒されたお陰で、夢も見ないくらいグッスリ眠れたよ」

 ウインクを飛ばして、ミハエルは続ける。

「ビシソワーズを作ったのはさ、前に姫が美味しいって言ってくれたからさ・・・・・」

 照れ臭そうに頬を掻くミハエルに、アルトは一瞬目を丸くした。そして、すぐに、ふわりと微笑を浮かべる。どんな時でも、嫌みなくらい余裕を滲ませているミハエルが、こんな風に素直な表情を見せるとは、想像すらしたことがなかった。それも、アルトが喜ぶ姿が見たかったから、と言われれば、こちらまで照れ臭くなってしまう。それでも、アルトはミハエルの声に応えるように、改めてカップを傾けて微笑む。

「うん、ミシェルの作るビシソワーズは胡椒効いてるけど、優しい甘さが感じられるから好きだぜ?卵料理も、な」

 花が綻ぶような柔らかいアルトの笑顔に、ミハエルは思わず口元を隠した。そんな綺麗な微笑みを浮かべて、好き、などと言われたら、食卓を投げ打って抱き締めたい衝動に駆られてしまうではないか。相変わらず、男心を知らないお姫様である。自分の苦悩など気付く素振りもなく、美味そうにベーコンエッグを口に運ぶアルトに、ミハエルは小さく息を吐き出した。そして、クロワッサンに手を伸ばしながら、雑念を払うように口を開いた。

「・・・・それで、今日はどうするんだ?」

 ミハエルの問いに、アルトは首を傾げた。ミハエルの口振りからすると、まるでアルトにプランがあるようだ。だが、とアルトは記憶を探る。今日の予定はまかせろ、などと約束をしただろうか。終いにはウンウンと唸り始めたアルトに、ミハエルは思いっきり呆れた。

「おいおい、誕生日プレゼントの代わりに、俺の七月二十七日をくれって言ったの、アルトだぜ?」

 忘れたのかよ、とため息を零すミハエルに、アルトは必死に記憶を手繰る。そう言えば、と朧げに交わした会話を思い出す。普段から愛を囁いてくれるミハエルから、改めて誕生日プレゼントという名の愛の形を貰うのは気が引けるから云々、という遣り取りをした覚えがあるような気がする。そこで自分の誕生日には、ミハエルの一日をくれ、と言ったのだ。改めて考えれば、随分と恥ずかしいことを言ったものだ。アルトは、誤魔化すようにサラダを口に入れた。もそもそと咀嚼する。一緒に住んで尚、自分の誕生日にはミハエルの時間を独占したい、だなんて。そして、忘れていたなんて。

 困ったように眉根を寄せているアルトに、ミハエルは眦を緩めた。まったくの想定内のアルトに、笑いしか出てこない。確かに、あの時のアルトは疲れていたのか、夢現の状態だったと言えた。ミハエルはジュースで唇を濡らすと、口を開いた。

「じゃぁさ、俺が適当に決めて良いかな?」

「そりゃ・・・・・ミシェルに何か案があるなら・・・・・・」

 アルトは、恐縮してミハエルを見た。いつもどおり、蕩ける蜂蜜を思わせる甘い笑みを浮かべている。自分から時間を寄越せ、などと言っておいて、この体たらく。普段からデートプランをミハエルに任せっきりにしている分、大見得を切った手前アルトが考えるべきだったのだ。にも関わらず、家を飛び出してから多少世界が広がったとは言え、相変わらず世間に疎い自分は、瞬時にデートスポットを思いつくこともできない。不甲斐ない、と唇を噛むアルトに、ミハエルは手を伸ばした。艶やかな唇を今にも噛み切ってしまいそうで、そっと指で唇を撫でる。

「まだ俺にも具体的な場所とかある訳じゃないから。取り敢えずコーヒー飲んで、一息入れてから出かけようぜ?」

 アルトはカフェオレな、とウィンクと飛ばすミハエルに、アルトは力なく笑う。本当に、腹が立つくらい優しい。アルトは一つため息を吐き出すと、気を取り直すように口を開いた。

「洗濯する時間もくれ」